為末大さん @ GTIC ② 世界への険しい道のり

取材&構成:徳橋功
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メダルを獲った選手たちのためのバスと獲れなかった選手たちが乗るバスが並んでいました。

侍ハードラーこと為末大さんによるスーパープレゼンテーション『世界陸上選手権 銅メダルまでの軌跡 & 競技人生の中での葛藤』。第2部は「世界への険しい道のり」です。世界の壁を越える道を模索した中で偶然見つけたハードル競技。選手人口が少なく、日本人にも勝てる余地があると思い転向した為末さん、バラ色かと思われた未来は、いきなりスランプから始まりました。マイナスの状況から世界大会でのメダル獲得までの、波瀾万丈のライフヒストリー。世界で勝ちたい全ての人にお届けします。

*為末大さん
2001年世界陸上エドモントン大会・2005年世界陸上ヘルシンキ大会の男子400mハードルにおいて銅メダル獲得の快挙を達成。またオリンピックには、2000年シドニー・2004年アテネ・2008年北京と、3大会連続出場。2001年世界陸上は、五輪・世界選手権を通じて日本人初の短距離種目の銅メダル獲得の快挙。
現在はスポーツコメンテーター・タレント・指導者などで活動中。株式会社R.project取締役、一般社団法人「アスリートソサエティ」ボードメンバー。

*写真提供:GTIC

 

第1部からの続き)

”足の裏”とスランプ

100メートル10秒00の日本記録保持者で伊東浩司さんという方がいます。私の世代のスーパースターです。伊東さんが編み出した独自の練習方法というのがあり、その当時私たちの間ですごく流行り、足の速い選手は皆やっているというものでした。だから私も「伊東さんの練習方法でやればきっと足が速くなる」と思い、取り入れました。その結果、何が起きたのかと言いますと・・・

3年間、全く走れなくなってしまいました。3年間のスランプに突入したわけです。その1年目は「まあ、しょうがないかな」と思ったのですが、2年目くらいから焦ってきて、3年目には「スランプ前の状態に戻って、調子を整えてからこの練習方法を取り入れよう」と思いました。しかし陸上のスランプは恐ろしく、元々どうやって走っていたかが分からなくなったのです。だから僕も迷路にはまったみたいになりました。

不眠症に似ているのかもしれませんが・・・僕は不眠症になったことが無いので分からないのですが、足の裏の接地の仕方を当時は気にしていました。足の裏のことを考えない、ということが出来ず、走っていても足の裏のことが気になって仕方がなかったのです。

 

勝つために本当に必要なものを分析

そこで最終的にどんな手段を使ったかと言うと、自分の手首に鈴を付けて走りました。そのヒントは宗教でした。僕は宗教に関心があるのですが、お坊さんがお経を読む時のように、宗教者が一定のリズムを刻み、それにより周りの人たちがトランス状態に入っていきます。だから、どうせ足の裏のことを考えて無になれないのだったら、せめて鈴の音だけを聞いていたら足の裏のことを忘れるのではないか、と思い、それから”チリン、チリン”という音を追いかけながら走っていました。すると、いつの間にか足の裏のことを忘れることができました。寝る前に羊の数を数えるのに近いと思いますが、そのうちにかつての走りを取り戻しました。

「これさえやれば必ず○○」と言われているものは多いのですが、そういうもののだいたいは嘘なんですね。「これさえやれば痩せる」というのも、そんなことは無くて「痩せる人もいる」という感じだと思います。そしてもうひとつ、足の速い人がやっていたことをやれば自分も速くなるかと言えば、これもまた違うわけです。

例えば先ほども話した桐生君(桐生祥秀さん)がある練習方法で100メートル9秒台を出したとします。彼がそのためにやったことは沢山あるわけです。ウォーミングアップの仕方、練習の仕方、着るウェア・・・これらの全てが要因に思えてくるのです。でもそれらのほとんどは足が速くなることとは関係が無い、ただの迷信というのも多い。でも選手にとっては、自分が調子の良い時にやっていたことがジンクスとなって、それを見ている人も「これさえやれば速くなれる」と思うかもしれないのですが、そこに何の根拠もないということが沢山あります。

だから「本当に勝利に影響したものは何か」を分析しないと、すごく極端な例で言えば「シューズの紐を右から結んで良い結果を出せたから、右から結ぶべき」のようなレベルのことを参考にしようとする事例も出てきます。何が迷信で、何が本当にやるべきことなのかを判断する必要性を、この時に学びました。

 

オリンピックでの屈辱

ようやくスランプから脱出して、22歳の時に初めてオリンピックに出ました。2000年に開催されたシドニーオリンピックですが、何が起きたかというと・・・親戚が急増したんです(笑)。私のところにいろんな連絡が来るようになるのですが、同じように応援団もできました。多くの方々からいただいた餞別で、親戚一同20数名が現地に来ることができました。田舎からオリンピック選手が出てくるとよく起きる光景です。

ここに映像があります。私が人生で一番最初に走ったオリンピックの予選の映像です。

<映像を見せる。予選で9台目のハードルに引っかかり、転倒。参加者からため息>

これが私の人生で最初のオリンピックの予選でした。この後に長い100メートルくらいの通路を通って、自分の脱ぎ捨てたジャージを取りに行くんですね。その時に一番最初に浮かんだのが・・・9台目まではトップだったんですね。かなり楽勝で予選を通っていたはずでした。だから「もう1回やらせてくれないか」と思いました。それはもちろん無理でした。その次に浮かんだのが「これはとんでもないことをしてしまった」という思いでした。そしてその次に去来したのが「今回のこの屈辱をいつか晴らしてやる!」ということでした。

しかし、これがオリンピックの最大の特徴なのですが、もう一回チャレンジしたくても4年間そのチャンスが無いわけです。「もう4年待たなければならないのか」という”時間の残酷さ”を、この時すごく感じました。

我々選手は飛行機で日本に帰国し、成田空港に着くとバスが2台並んでいました。1台はメダルを獲った選手たちのためのバス、もう1台は獲れなかった選手たちのためのバス・・・勝負の残酷さもハッキリしていました。

 

未経験だった”風”

しばらく競技のことを考えずに休んでいたのですが、1ヶ月ほどして練習を再開しました。そうすると気分が上向きになってきて、シドニー五輪の時の映像をもう一度見ようかな、という気になるんですね。それで見てみると、当時は明らかに風が吹いていて、私のユニフォームがバタバタ風ではためいているのですが、それは何なんだろう、と思いました。よく見てみると、スタートしてからレースの前半は、相当風を受けていたんですね。ハードル競技は屋内であれば決まった歩数で走れば良いのですが、屋外だと風の影響を受けます。ハードルの戦術の最大の特徴は、ハードルとハードルの間の35メートルについて選手が自由に歩数を決められることです。私は13歩を4回、14歩を2回、15歩を3回というペースにしていました。歩数が増えるのは、疲れてくると歩幅が小さくなるからですが、全てが同じ歩数という選手もいます。

しかし、例えば前から風速2メートルの風が吹くと、1歩につき2センチ歩幅が小さくなります。これを13回繰り返すと30センチくらい縮んでしまう。30センチも従来より足を踏み切る場所がずれると、我々はもう踏み切れません。踏み切るのがハードルに近過ぎると転倒、ハードルから遠いと、描く放物線の終わりの方でハードルにぶつかって転倒する。ハードルの最大の特徴は、風が吹いていようが自分がいくら疲れていようが、いかにいつも同じ位置で足を接地させるか。それがすごく大事になってきます。

でも私はこの時まで、風を経験したことがありませんでした。するとどうなるかと言うと、風が吹いてきた方向によって、自分が何をどのようにすれば、いつもと同じ場所に足を着けることができるか、それが分からなくなるのです。日本の競技場はうまく風を防げているところが多かったのですが、海外は違っていました。オリンピックで使う競技場ですら、風がすごく吹いていたくらいです。

この後の試合も、ずっとこのような環境で走らなければいけないと思い、私は”経験を積む”ことを決めました。世界に出ることを決めたのです。

 

世界転戦の旅へ

ただ、どうやって世界に出れば良いか分かりませんでした。そこへ、世界で賞金レースがたくさん行われていることを知り、それらに出ようと画策しました。コネクションのありそうな外国人が日本に来た時、その人が選手かどうかは関係なく「とにかく僕は海外に行きたいんだ」ということを、メールアドレスや電話番号と共に伝えました。しかし一向に返事が無いまま夏も中盤に入り、何か違う方法はないかと考えていました。

そんなある日、電話がかかってきました。当時、僕の友達には英語を話す人が一人もいなかったので、その人が英語で話しているのを聞いて「日本からの電話ではないな」と分かりました。彼は「4日後にイタリアのローマでレースがあるので、3日後にローマに来たら出してやる」と言いました。その人がどんな人かも分からないのですが「これはとにかく行くしかない」と思い、ローマ行きのチケットを手に入れて、スパイクと練習用具だけ持ってローマに飛びました。

現地ではきちんとお迎えが来ており、その2日後にはレースに出場できました。よく聞くと、ケガで欠場した人が一人出たので、そこの枠に僕ははまったようです。それで思いっきり走ったら、3位に入賞しました。その順位により賞金が変わるのですが、そのいくらかを”エージェント”と呼ばれる人がもらうという仕組みになっていました。それまで全く姿を現さなかったエージェントが、レースが終わった瞬間に僕のところに駆け寄ってきて「よくやった!」みたいに言ってきまして、いきなりエアチケットを渡されました。「次はクロアチアへ飛べ」と言われたのです。そして訳の分からないまま、翌日にクロアチアのザグレブというところに行きました。

そこでまたレースをして、優勝しました。するとエージェント – オーストリア人のロバート・ワグナーという名前が判明するのですが – は、私が稼ぐ選手だと分かって距離を近づけてきました(笑)そしてチケットを渡され「次はスイスのローザンヌに行け」と言われました。そこでは3位に入りました。それからまたチケットを渡され、今度は”TGV”というフランスの新幹線に乗り、パリに行きました。そのパリでは5位に入り、全部で4戦行ったのが、私の人生で最初のグランプリでした。8日間で4カ国、まさにレースと移動だけの日々でした。

 

ついにメダル獲得

日本帰国後は疲労困憊で、全く走れない状態でした。でも2週間ほどしたら少し回復し、1ヶ月後にはそれまで自分が到達したことの無いタイムで走れるようになりました。スポーツには”超回復”という理論があり、ある水準からトレーニングで疲労すると、それよりも高い水準に飛躍するというものです。私の場合は、1ヶ月規模の巨大な超回復が起きました。そのタイミングで、カナダのエドモントンというところで行われた世界大会に、私は決勝に進出しました。そのレースの映像がこちらです。

<映像を見せる。「銅メダル獲得!」>

これが私が人生で最初にメダルを獲った瞬間でした。日本人の短距離種目で一番最初にメダルを獲ったレースでした。

エージェントにとっては、僕からの電話は本当に何気ないものだったと思います。恐らくリストに載っている選手の中の一人が私だったと思うんですけど、私の人生にとっては本当に重要な時期で、その瞬間が無かったらメダル獲得も無かったのではないかと思うくらい、大切な経験をしました。

でもそのような瞬間に自分がすぐに飛び込めるかどうかというのは、本当に大事なことだというのを、今にして思います。なぜその時に躊躇せず海外での転戦に行けたかというと、恐らく2つの要素があったと思います。1つは「とにかく世界で勝負したい」という大きな目標があったこと。もうひとつは「そのためには世界での経験という自分に足りなかったものが絶対に必要」という思い。これらがあったので飛び込めたのだと今になって思います。

 

世界第3位に到達した為末さん、この後の人生はバラ色・・・?いえ、神様はまだまだ為末さんに試練を与えました。”神プレゼン”の最終章、こちらからどうぞ!

 

My Eyes Tokyo

Interviews with international people featured on our radio show on ChuoFM 84.0 & website. Useful information for everyday life in Tokyo. 外国人にとって役立つ情報の提供&外国人とのインタビュー

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