平間久美子さん
インタビュー&構成:徳橋功
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Kumiko Hirama
通訳案内士/映像翻訳者
一度あきらめた目標に20年後到達。夢を叶えたという思いよりも「結局ここに戻ってきたんだな」という気持ちでしたね。
昨年(2017年)10月初旬に開催されたパネルディスカッション『海外への情報発信スキルで人生を変えた女性たち』(主催:国際コミュニケーションアーツ学院(GCAI))。その名が示す通り、あらゆる分野で活躍する女性たちが、いかにして海外に発信しながら独自の活動の幅を広げていったのかを話し合うという内容でした。一般客として参加した私たちは、その時出会った日本語/ポルトガル語通訳者・翻訳者の中井ミリーさんにインタビューをさせていただきました(記事はこちら)。
そこで今回は、中井さんと同じくパネリストとしてセッションに参加されていた、通訳案内士兼映像翻訳者の平間久美子さんをご紹介します。
平間さんは映像翻訳者として、これまで映画やドラマの字幕や吹き替えを数多く担当してきました。また歌詞翻訳者としても、映画『SING/シング』や『トレインスポッティング2』のオリジナル・サウンドトラックなどを手がけてきました。またフォトグラファーとしても活躍しています。
*参照:『翻訳者、通訳案内士、フォトグラファー 多彩に活躍する平間久美子さん』(日本映像翻訳アカデミー)
かように多才な平間さんの、通訳案内士としての側面に焦点を当てる今回のインタビュー。浅草、お台場、浜離宮を自身の定番コースとしながらも、お客さんのリクエストに柔軟に応じ、時に鎌倉や江の島まで案内したこともあるという平間さん。欧米や中東などから日本を訪れる観光客に笑顔を届けるに至るその種は、実に20年以上も前に蒔かれていたのです。
*インタビュー@六本木
二度と戻らないと決めた道
私はもともと英語が大好き。小学5年生の頃に初めて成田空港に行ったときに聞いた英語のアナウンスに胸がときめき「大人になったらここで働きたい!」と思いました。その翌日には英語の辞書を買いに本屋さんに走り、その後NHKラジオ『基礎英語』で英語を学び始めました。
高校を卒業し、大学では英語学を専攻。しかしその後の進路を考える際“仕事は生きるためのもの”と割り切り、営業事務の職につきました。英語を活かせる場面はほとんど無く、仕事に張り合いが感じられなかった私の中で、改めて大好きな英語に携わる仕事への欲求がどんどん募っていきました。そこで通信教育で翻訳の勉強を始めました。
その後1996年、“通訳案内士”という仕事の存在を知りました。これなら自分にもなれるのではないか – そんな単純な理由で方向転換し、通訳案内士を目指して勉強を始めました。しかもその頃、大学時代に海外で出会った友人たちが相次いで来日し、私の地元を案内したり、浅草とお台場を結ぶ遊覧船に乗せたりしていたのです(ちなみにこの遊覧船は、現在も私の定番コースです)。
そんな経験もあり、自分でも受かるだろうと考えた通訳案内士の試験。でも全然通らない(涙)筆記試験には強かったのですが、筆記試験通過後の英語面接で、頭が真っ白に・・・もちろん外国人の友人との会話はできていました。でも面接では、極度な緊張で自己紹介すらまともにできず、結局落ちてしまう – それが3回続きました。試験は年1回、つまり3年間受験し続けたことになります。
通訳案内士を目指して勉強に集中するために思い切って会社を辞め、アルバイトで食いつないでいた私の生活は限界に・・・文字通り泣く泣くその道を断念しました。
英語から離れられない
でもその時間は決して無駄ではありませんでした。通訳案内士の勉強を通じて翻訳力が飛躍的に身に付いた私は、その後、翻訳者に転身。社内翻訳者として様々なプロジェクトに参画しました。
でも私は考えたのです。「翻訳は、いつか機械に取って代わられる」と・・・時は2001年、まだグーグルが世に出て間もない頃、すでに私はそのような不安を感じ、次の道を探し始めました。そしてある日、スクール紹介雑誌をめくっていた時、映像翻訳学校の生徒募集案内に目が留まりました。卒業後は学校から仕事を紹介してもらえる – 「ここで勉強しよう!」と思い、私は日本映像翻訳アカデミーという学校に入学。翌2002年、私はプロの映像翻訳者としてデビューしました。
その数年後、私は仕事の幅を広げるため、翻訳と並行して英会話講師の仕事を始めました。日本語を使って英語を教えるつもりで2010年に英会話スクールに入社。しかし実際は、英語で英語を教えることになったのです。通訳案内士の面接で英語のオーラルコミュニケーションにすっかり自信を無くし、封印していたはずが、1コマ50分間ずっと“英語で英語を教える”ことに・・・でも研修担当の方から「あなたの頭の中にある英語は、シャドーイングとオーバーラッピングで訓練すれば全て口から出るようになります」と言われ、私は研修終了後から初レッスンまでの間、家でも一日中ずっと英語を口にしていました。自分が話す言葉を全て丸暗記して臨んだ初レッスンでしたが、レッスンを続けている間に英語が自然と自分の口から出てくるようになりました。
英会話力にだんだん自信がついてきたものの、もっと伸びる余地があるだろうと思った私は、昔からの夢だった“外国で暮らす”ことを考えました。2014年に英会話スクールを退社し、友人の伝手で単身ニューヨークへ。異国での生活という挑戦を始めました。
Connecting the dots – 全てがつながった瞬間
ある日ニューヨークでボランティア活動に参加していた時、ニューヨーク在住のイタリア人のご婦人に出会いました。私が日本人と知るや彼女は「今度日本に行くのよ」と言いました。その後、日本で彼女と再会。その時、彼女は通訳案内士さんを雇って東京観光を楽しんでいました。そのツアーに同行させていただいた時、私は突然思い出したのです。
「私は昔、通訳案内士になりたかったんだ!」
そのことを、イタリア人のご婦人と、ツアーに同行されていた通訳案内士さんに打ち明けました。すると「あなた、絶対にこの仕事に向いているから、資格を取りなさい!」と背中を押されました。
すっかり気を良くした私は、長い長い時を経て再び通訳案内士試験に挑戦。しかし地理の点数が足りず、筆記試験に落ちてしまいました。私が以前受験した時、地理のテストは面接の後に控えていたのですが、それが1次試験の科目に含まれたのです。面接に落ち続けていた私にとって、地理は未知の世界でした。
そこで再び挫折。しかしその後、友人や家族の励ましを受け、もう一度だけチャレンジすることに。試験を受けた翌年であれば、落とした科目のみ受験して合格すれば次に進めるので、地理を必死に勉強して難関を攻略、1次試験に合格しました。
「さあ次は面接だ!」と思い、私は面接日の2日前までニューヨークに滞在。英語で考え、英語でコミュニケーションすることに自らを慣れさせた上、現地の友人たちに模擬面接をしてもらい、東京に向かう機内でガイド試験対策の音源を聴き続けました。
そうして臨んだ面接を無事通過し、2016年、ついに通訳案内士試験に合格。初めて試験を受けてから、実に20年もの歳月が過ぎていました。
でも合格した時は「晴れて自分の夢を叶えた!」という感覚は無く「結局ここに戻ってきたんだな」という気持ちでした。あらゆる経験をして、結局同じところに戻ってくる。幼馴染だった人と別れ、途中でたくさんの人に出会ったのに、ある日再会したその幼馴染と結婚する – そんな人生みたいだな、と思い笑みがこみあげてきました(笑)
しかも、全てはつながっていました。先ほどお話ししたように、通訳案内士の勉強をするうちに翻訳の力が身に付き、映像翻訳者の道に進み、英会話スクールのインストラクターを始めたおかげで、通訳案内士に必須の英語コミュニケーション力が向上したのですから。現在は映像翻訳者と通訳案内士として、二足のわらじで頑張っています。英日翻訳は“外国のことを日本に伝える仕事”、通訳ガイドは“日本のことを外国に伝える仕事”。両方の文化を行ったり来たりする日々を満喫しています。
“添乗”と“案内”は全く別物
冒頭で申し上げたとおり、私は通訳案内士を目指し始めた約20年前にも、海外の友人たちに東京案内をしたことがあります。でもその当時と、通訳案内士になった今とでは、全てが違います。
私が20年前にしていたのは、ただ“ある場所に連れて行く”こと、それだけでした。例えば浅草に友人たちを連れて行ったとしても、ただ一緒に仲見世を歩き、浅草寺でお参りして、ハトに餌をあげて終わり(笑)当時の私は浅草の歴史など全く知らなかったから、それを彼らに伝えようとすら思っていませんでした。でも私は彼らを“案内した”つもりになっていたのです。
一方で通訳案内士は、お客様をある場所に連れて行くこと、いわゆる“添乗”に加えて、彼らに訪問地の歴史や文化的背景について説明する“案内”をしなくてはなりません。しかもお客様を連れていながら駅の出口や道に迷うことなど、絶対にあってはならないこと。だから私は、今でも、乗り換え経路などに不安のある駅については、お客様に会う前に、一度すべて自分の足で歩いて動線の確認をします。お客さんからの急なリクエストを除き、ツアー当日に歩くコースについては、通訳案内士は地図を見て案内してはいけないと思っています。
でもその努力は、お客様に見せてはいけない。お客様に楽しんでいただくよう周到な用意をしておき、実際にお客様にお会いしてからは“古くからの友人”や“親戚のおばちゃん”に街を案内してもらっていると感じていただけるよう、楽しくリラックスした雰囲気作りを心がけています。
お客様から教えられること
日本に旅行に来たお客様を案内するのが私の仕事ですが、逆にお客様に教えていただくことや気づかされることが多々あります。
例えば食べ物。ドバイからのお客様をご案内した際、普段あまり意識したことのなかったハラール認証の表示をたくさん目にするようになり「この店がこんな対応をしていたのか」と驚きました。また、ヴィーガンやグルテンフリーのお客様は、来日前にきちんとリサーチをされていることが多く、「こういうお店のこういうものなら食べられる」という情報を逆に教えていただくことも。
それ以外にも印象深い体験をしたことがあります。中東から来たお客様を土産物店にお連れした際、着物が前向きと後ろ向き(背中の模様が見える状態)で展示されていました。それを見たお客様が「こういうふうに前が開いていない着物が欲しい」とおっしゃったのです。きっと奥様へのプレゼントとして、前が開いていないものが良いと思われたのでしょう。私たちにとっては、着物は前が開いているのが普通ですから、そのような見方があることが、私にとって大変な発見でした。
そのようにして得た知見や発見は、通訳案内士としての私の大切な財産になっています。
真の観光立国になるために
訪日外国人観光客の増加を受け、観光地に限らず、多くの飲食店や小売店などが、外国人対応のための努力をされています。ただ一方で、日本語をグーグル翻訳で英訳したものを、手直しを一切せずにそのまま掲載しているとしか思えないような掲示物や注意書き、メニューなどが散見されます。小さいお店がおもてなしの気持ちから英語に訳しているのであれば、そこは目をつぶりましょう。でも大手企業やフランチャイズ店がそんな訳文を出していて、果たして良いのでしょうか? 日本を訪れた観光客はそれらを見つけては、大笑いしながら写真に収めています。私もその時一緒に笑いはするものの、その企業の将来性を疑います。外国語で掲示物を作る場合、必ずネイティブチェックを受け、企業として恥ずかしくない訳文を表示していただきたいと思います。
街中でのクレジットカード対応も急務であると日々感じます。特に鉄道や観光船などの交通機関です。新幹線の切符などを購入する際には、クレジットカードも利用できますが、諸外国では、近距離の切符の券売機でクレジットカードが使えるのが普通なので、現金しか使えないと聞くと、皆さん、かなり驚かれます。逆に飲料の自販機やコンビニでSuicaやPASMOが使えることは、斬新に思われるようなので、あらゆるクレジットカードでICカードの購入とチャージができるようになれば、利便性は飛躍的に高まるかと思います。
最後に・・・お店などに行くと、スタッフさんが言うべき英文を丸暗記して、ものすごいスピードでまくしたてるという場面によく遭遇します。伝えるのは呪文ではなく、あくまでも言葉。ひとつひとつの単語の意味を意識して話さないと、伝わるものも伝わりません。また、英語での対応になった途端、日本人のお客さんへの対応以上にマニュアル的な接客になってしまう傾向も見受けられます。「自分の目の前にいるのは、同じ人間である」ということを意識すれば、より温かみのある対応ができる気がします。
『死ぬまでに一度は行きたい世界の1000ヵ所』の著者パトリシア・シュルツさんが「日本の宝は人です」と言っていました。どちらかというと英語が苦手な国民ですが、道を尋ねられれば、どうにかして身ぶり手ぶりで対応し、それでも通じなければ、その場所まで連れていってしまうのも日本人です。日本を訪れた観光客の皆様には、たくさんの心温まる思い出を持ち帰っていただきたいですね。
平間さん関連リンク
That’s interesting!(日本語):interesting-languages.blogspot.com
Picturesque Japan -Tokyo guiding & Photography-(英語):pict-japan.com