マイケル・アンソニー・S・ポーターさん(カナダ)
インタビュー:徳橋功
構成:エマ・ウィスロー
日本語訳:徳橋功
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Michael Anthony S Porter
メディア起業家
どんな結果になるか分からずにいるよりも、やってみて失敗する方がずっといい。
今からほぼ1年前の2016年1月末、私たちMy Eyes Tokyoの活動が、シンガポールを拠点とするオンラインメディア「Tech In Asia」に掲載されました(*記事はこちら)。アジア諸国のスタートアップや投資家の情報を網羅したこのメディアに掲載された記事は、たくさんの「いいね!」と読者の皆さんからのご意見をいただきました。そしてたった1人(!)実際に私たちにメールを下さり、都内でお会いした人がいます。それが今回ご紹介するマイケル・アンソニー・S・ポーターさんです。マイケルさんはメディア収益化のプロとして、私たちにアドバイスを下さいました。
過去に有名ビジネススクールで学び、大手からベンチャーまで様々な国内メディア関連企業で活躍してきたマイケルさん。それらの経験を武器に今、彼は世界規模の映画ストリーミングプラットフォームを立ち上げようとしています。そこで私たちは、マイケルさんへのお礼の気持ちを込めてインタビューさせていただくことにしました。
2017年を“挑戦の年”と掲げる全ての人に、一人のカナダ人の挫折と格闘と成長の記録をお送りします。
*インタビュー@田町(港区)
英語版はこちらから!
少年時代に出会った日本
僕はカナダの西の端にあるブリティッシュ・コロンビア州の州都ビクトリアで生まれました。母はフィリピン・中国・マレーシアのルーツ、父はイギリスとドイツのルーツを持っています。そんなわけで僕は両親同様、あらゆる人種が入り交じっています。
1980年代初頭に僕が育った場所では、子供たちはBMXやダートバイクで走り回り、ヘビーメタルバンドのTシャツを着ていました。外国人に出会う機会などほとんど無かったから、僕のように髪が黒い人は中国人だと思われていました。多分映画「グーニーズ」に出てきたアジア系の子役に似ていたようです(笑)いずれにせよ「僕はカナダ人だよ」と言って相手が混乱する様子を見るのは日常茶飯事でした。
僕をハイレベルの小学校に入れるため、母は汗水流して働きました。母がそのようなことをする必要は必ずしも無かったとは思いますが、世のお母さん方は子供のために懸命に働くものです。そして僕自身、もしその小学校に行かなかったら今頃日本にはいなかったと思います。
入学した小学校で、僕は同じように複数のルーツを持った子に出会いました。日本とカナダのハーフである彼とは、やがて親友になりました。彼のお母さんは、言うなれば小学生だった僕らにとっての日本語の先生であり、やがて僕にとっての2人目のお母さんのような存在になりました。その学校では幼稚園から語学教育が必須で、僕らは英語やフランス語、日本語を勉強しました。5年生以降は3つ目の言語の学習に移ることができましたが、僕はそのまま日本語を、高校生になるまで勉強しました。
このような僕の少年時代が、僕の日本への興味を駆り立て、「いつか日本に行きたい」とずっと思っていました。しかし日本に住むことになるなど、全く考えたことはありませんでした。
日本で働くチャンス!
僕は2000年に高校を卒業し、カナダの東海岸にある、ジャーナリズム分野で評価の高い大学から、サッカーの奨学金をゲットしました。当時、サッカーは僕にとって全てでした。僕が今でも鮮明に覚えているのは、子供の頃に見た1986年W杯。でもカナダでは90年代後半になってもプロサッカーリーグが無かったため、サッカーの道に進むのはリスクがありました。僕のサッカー愛は強かった一方、僕の夢は空を飛ぶことでした。これらの計画は全く実行されませんでしたが、今でも飛行機のライセンスは欲しいですね。
高校卒業後すぐに、僕は米シアトルにある航空学校への入学が許されました。家族は支援すると言ってくれましたが、飛行訓練を受ける数週間前に全てが白紙になりました。僕の母は謝りながら、航空学校入学が実現不可能であることを僕に言いました。単純に学費がすごく高く、一方でサッカーの奨学金も却下され、もう一度申請し直す時期も逸しました。これが僕にとっての最初の機会損失の経験であり、また不安定要素と格闘した最初の経験でした。その時の喪失感はものすごく、途方に暮れました。
それでも前に進んでいこうと、僕はアルバイトを探し始めました。そこで日本の会社を見つけたのです。そこはカナダの会社ではなかったので、僕は彼らの選考プロセスが、僕がこれから受けようとしていた会社と同じなのか違うのかを見てみたいと思いました。その会社は名古屋に本社がある出版社で、子供向けの書籍に携わる人を募集していました。僕は何の期待もせずに面接に臨みましたが、数週間後、彼らから日本に来るようオファーがありました。ただ不運なことに、僕は当時すぐにカナダを出ることができませんでした。それは自分自身が進むべき道について迷っていたからです。しかし、彼らはそんな僕に猶予をくれ、もしオファーを受けてくれるようになったら連絡してほしいとおっしゃいました。
その後僕は、お金を稼ぐのと、仕事の経験をするためにスターバックスで働きました。そこで数ヶ月間勤務した後、僕は名古屋の出版社に連絡し、丁寧にお礼の気持ちを伝えました。でも、彼らからのオファーを受けるという返事はしませんでした。当時の僕は「もし日本に行くのであれば、名古屋ではなく東京に行くべきだ」と考えていたほど世間知らずでした。
それでも僕は、日本に行くことにしました。カナダを出る前、僕の周り全員が、僕が出版社で働くものだと思っていました。その仕事を断ったことを、僕は誰にも話していませんでした。
仕事のアテが無いにもかかわらず、僕は飛行機のチケットを握りしめ、日本へと向かいました。そして2001年5月に日本にやって来ました。ラッキーなことに、僕の友人のご家族がしばらくの間僕を泊めさせてくれて、おかげで東京のことを知ることができました。振り返ってみて、もしそのつながりがないまま成田空港に降り立っていたらどうなっていたか、背筋が震えます。
良かれ悪しかれ、10代の頃というのは自分が何をやっているのか本当には分かっていないということです。つまりは、経験を通して学んでいく。そして自分がしていることがどのような結末につながるのか、そんなことを完全には分からなくても、何も考えずにやり続ければ、意外と道は開けるものだと思います。
全てはW杯のために
無職で東京に住んでいた時「英語を教えてみたら?」というアドバイスを受けました。英語教育について何一つ知らない僕は、勧めに従って日本で評判の良い英会話スクールに応募しました。そしてあるスクールで職を得、その翌年にビザが切れる直前まで働きました。もちろんサッカーを見るのもするのも好きな僕は、2002年6月に開かれるサッカーW杯の頃までは絶対に日本にいたいと思いました。しかし僕のビザの有効期限は2002年5月まで。そのままでは、その願いが叶うはずもありません。
その上同僚たちは僕に「ワーキングホリデービザから正規の労働許可になど、引き上げてくれるはず無いよ」と言いました。でも僕は一縷の望みに賭け、入国管理局宛に自分の日本での経験について詳細に綴った手紙を書き、ビザ更新申請書と一緒に提出しました。手紙には、日本での生活をどのくらい満喫し、何を達成したかを書きながら、1年という時間は短すぎると加えました。さらにビザ延長の暁に実現したい目標を書き、もう1年ビザを延長してくれるようお願いしました。その手紙がビザ延長の申請に影響するかどうかなど、確かなことは誰にも分かりません。でも結果として、何と「3年間の労働を許可する」という知らせが届いたのです。この経験は、僕のこれまでの人生で最も価値あるものとなりました。
僕が得た教訓は「どんな結果になるか分からずにいるよりも、やってみて失敗する方がずっといい」ということでした。できる限りの準備をし、努力し、そしてとにかく聞いてみる。なぜならもし達成不可能なことが目の前に現れた時、もし何も準備をしていなければ、驚くことしかできないからです。「求めよ、さらば与えられん」。これは昔からの使い古された言葉かもしれませんが、全くもって真実だと思います。
日本での生活が2〜3年目を迎える頃、東京での生活にすっかり慣れてきました。しかしちょうどその頃、僕の母が「いつになったらこっちに戻って大学を卒業するの?」と言ってきました。現実には僕は独力で首尾よく暮らし、あらゆる人たちと出会い、サッカーをし、自分で広げられる限り大きな世界を作っていました。
メディアの世界へ
サッカーのチームメイトが、彼の勤務先である「アフロ」という会社との面接を受けてみないか、と言ってきました。アフロは東京にある写真や動画のエージェンシーとして有名です。面接に通り、僕はアフロで職を得ました。
アフロに入社して最初に僕がしたことは、会社の英語ウェブサイトの再構築でした。しかし責任の範囲が徐々に大きくなり、海外とのパートナーシップ交渉や、代理店販売網の構築にも関わるようになりました。仕事はチャンスと柔軟性に満ち、僕は海外パートナーとの協働を通じたアフロの世界的成長に関われることが、すごく楽しかったです。
仕事の成り行きで、僕は会社のデジタル制作過程における非効率性を特定し、改善を試みる作業を始めました。その経験を通じて、僕は自分が、複雑に絡み合った作業工程や効率的解決法の中にあるプロセスを見極める目を持っていることに気がつきました。散らばる問題を集めて上司に報告し、デジタル制作における作業工程の改善に向けて変更を提案することで、コンテンツ制作時間を3週間から数日にまで短縮することができました。
アフロは日本オリンピック委員会の公式写真チームであり、次のオリンピックまでの間は国内のスポーツやニュース、エンタメ系の写真を扱います。僕が勤務していた当時、アフロのスチールカメラマンが様々なイベントや大会などを取材する予定でしたが、一方で全社的にエンタメ系の動画配信への関心が高まりました。それはオンラインでの動画配信や、エンタメに特化した海外パートナーからの需要が増えたからです。ハリウッドセレブが来日して映画のプロモーションを行う動きが常にあったため、僕がセレブへのインタビューや映像編集、海外パートナーへの販売を一貫して担当しました。これがアフロの動画販売の活性化につながり、会社にとっての健全な収入源となりました。これは今も続いています。
アフロ在籍時、僕は親友と一緒に東京中のいろんなブランドの発表会に参加し、あらゆる人たちと出会いました。親友は有名なストリートファッションおよびカルチャーの雑誌で働いており、イベントに参加する中で、お互いに副業として僕らの活動を伝えるオンラインメディアを立ち上げることにしました。僕らは注目に値する成功を収め、ラルフ・ローレンやリーボックなどの有名ブランドが僕らを発表会に招待するまでになりました。それによりさらに注目を集めましたが、やがてある決断を下す必要に迫られました。僕らはそのプロジェクトをビジネスにするつもりはなく、楽しんでやりたいと思っていました。ビッグチャンスを逃すとはいえ、それでも僕らは自分たちが下した判断に後悔はありませんでした。
再び机に向かう
副業のプロジェクトを小規模のままで続けていくという決断を下したあと、僕は大学に行くことにしました。その理由はいくつかあります。まず第1に恋人ができたこと、2番目はこれ以上僕の母に心配かけたくなかったことでした。リーマンショックの後、経済状況がどれだけ厳しくなったか、誰もがご存知です。そんな中で大学の学位無しで仕事を見つけるのは至難の技でした。前に進んでいくためには、再び学校に行く必要があったのです。
学士号を取得するためには4年間かかります。でもその当時28歳だった僕にとって、4年間は永遠のように思えました。そこで僕は、学位を短期間で取得し、大学院に応募して彼らがどのように反応するか見てみようと思いました。先ほど言った、僕が20代前半に試みたビザ取得の経験と同じように、僕は大学院に聞いてみました。断られることももちろん想定内でした。なぜならそれは論理的結論だからです。しかし僕が大学にアプライしてから間もなくして、そこの入学担当部署から電話が来ました。彼らは僕の申し出を却下せず、僕が大学院レベルに達していることを証明してくださいと言ってきました。
長いプロセスを省いて短く言えば、大学は僕の願書を受け付けてくれて、2011年3月に起きた東日本大震災の約1週間前に日本を出ました。来日してから10年が経っていました。人生の新たな1ページを開いたような気持ちで、僕は再び家族の元で過ごし、学位取得に向けて勉強し、これ以上にないくらい最高の成績を残しました。大学が唯一優先すべきものになり、卒業して日本に戻ることを楽しみにしていました。科目の多くが典型的なビジネススクールのもので、僕の日本での経験が生きたので、すごく楽しめたし、一生懸命取り組むことができました。
僕は当初、ドイツのミュンヘン大学への交換留学生に選ばれていました。しかし官僚的な大学組織により、それは実現しませんでした。おそらく、自分の制御が効かないところで経験を逸してしまったという気持ちから、やがて「ハーバードビジネススクールに入ることで損失分を取り返そう」と考えたのかもしれません。とても皮肉なことですが、ハーバードに行くことになったのは、僕がヨーロッパへの交換留学枠から外れたからでした。ハーバードに合格するというのは、僕にとっては驚くべき、そして想定外の出来事でした。
ミュンヘンには行かず、僕は交渉術を学ぶ講義を履修しました。その科目の教授は現役を退いたヨーロッパ人のビジネスマンでしたが、彼はある朝僕の隣に座り、僕がどこで交渉術を学んだのかを聞いてきました。なぜなら僕のアプローチは実践的なものだったからです。僕は「交渉が僕の前職(アフロ)での仕事だったからです」と答えました。
この教授とはやがて良き友人兼メンターとなり、僕にハーバードを強く勧めてきました。僕にとってこの提案は、思わず吹き出してしまいそうなもので、真剣には受け取っていませんでした。現実的ではありませんでしたからね。僕は大学を卒業して日本に戻ろうと考えていました。しかし教授は粘り強く僕に勧めてきました。願書を作るのは決して簡単なことではありませんでしたが、その願書は受け入れられました。
ハーバードでの日々が終わる頃、東京を離れてから4年が過ぎていました。仕事からだいぶ遠ざかっていました。僕は生きていくために、政府管轄のITプロジェクトにビジネスアナリストとして入り、ヘルスケア分野で働きました。ヘルスケアでの仕事はすごく濃い体験でしたが、僕はもっと挑戦がしたいと思いました。友人たちとの会話と僕の卒業論文のテーマを組み合わせることで、あることが浮かび上がってきました。それは「映画界に、今よりもっと効果的な、テクノロジー重視のプラットフォームを導入する」ということでした。
そして、起業家に
東京に戻ってきてから、丸2年が経とうとしています。僕は東京を、いつも新しい視点で見ています。この2年間で僕はさらにたくさん疑問を持つようになり、また内省的にもなりました。そしてメディアの世界に戻ったものの、そこを出る決意をしました。それは、東京でストリーミング映画プラットフォームを立ち上げるための時間を確保したかったからです。ありがたいことに、僕は素晴らしい人たちに出会い、また有力者への紹介などあらゆる面で支援してくれる人たちに出会いました。現在、僕は資金調達を行っている最中で、ベンチャーキャピタリストや、僕のプランに興味を持ってくれる投資家に会っています。一つ一つの出会いと議論が、素晴らしいプラットフォームを作ることに時間を捧げているチームを支えてくれています。世界中に散らばる彼らと共に生み出すサービスは、きっと人々に愛されるでしょう。僕らはまだアーリーステージに過ぎませんが、今手にしているチャンスの大切さを理解しているし、とことんまでやり抜く準備はできています。
なぜ東京で、このようなプラットフォームを立ち上げるのか?それにはいくつか理由があります。日本はとても強い、全世界が理解するブランド力を持っています。日本がとてもハイテクで、高品質で、伝統的でありながら近代的で、謙虚で、正直で、でも突飛で風変わりであると、世界的に知られています。このような評判は好意的に受け取られています。さらに映画の世界において、日本は独特な歴史的意義を持っています。黒澤明や小津安二郎、宮崎駿などがその象徴です。もしスターウォーズが黒澤映画の影響無しに作られていたら、どれだけ違う作品になっていたでしょうか?世界の映画界の日本への認識や興味は、とても深いものです。
また2016年には、日本のフリマアプリである「メルカリ」や、世界的に大人気の日本のアニメをベースにした「ポケモンGo」が登場し、日本が世界レベルで戦えることを証明しました。日本人はこのことを誇りに思って良いと思います。もちろん、日本はリスクを回避する傾向のある国ですが、日本の起業家たちはそれを逆に機会と捉え、まだ名もなき大勢の人たちが、自分たちの価値を証明しようと必死になっているのです。
マイケルさんにとって、東京って何ですか?
チャンスの街です。
今も続く、伝統的規範と近代的理想との戦いにおいて、僕は日本に大きな成長の可能性を感じています。多くの人たちがご存知のように、この国で起こる変化はゆっくりです。しかし一度何かを受け入れたら、その変化はあっという間に起こります。さらに、リスクを嫌悪する文化があるということは、リスクを受け入れる人にとっては独自の価値を生み出すチャンスが生まれるということです。
首都圏は、国連によれば3800万人もの人が住む世界最大の都市です。東京オリンピック開催の年には、人口の減少がより顕著になっていると思いますが、東京は2030年でもなお3700万人もの人口を擁しているのです。ちなみに人口減少がこのまま続けば、1500年後にはたった2人の日本人しか日本にいなくなるという意見もあります。決して起こり得ないことかもしれませんが・・・
訪日観光客を例として考えてみましょう。2020年までに4000万人、2030年までに6000万人を目標に掲げています。もしこれらのうちの0.25%の人が日本に留まれば、減少する人口への歯止めとなる可能性があります。他のアジア諸都市が、人口問題に悩まされること無くどんどん成長している事実は、認めざるを得ませんし、この問題はまだまだ深堀りできるでしょう。例えば富の移転や、社会システムを維持するための度を超えた金額のお金、自動化、テクノロジーなどです。
しかし現実は、東京と同じような独自性や規模、魅力を持つ都市はほとんどありません。僕が強調したいことは移民問題だけでなく、これから起こるあらゆる変化に対して関心を持つことです。単純に、東京はこれまで以上に多様性や異なる視点を持つことを経験するでしょう。そしてそれらは、潜在的なチャンスを生み出すと思います。
僕の目には、東京は“チャンスの街”に映ります。もしチャンスをつかむ準備ができているなら、人が学べる場所、成長できる場所、そして何かを達成できる場所になると思います。皆さんにとって心地よい場所から継続的に離れ、自分自身を試し、失敗し、そして適応する。皆さんが望む速さ、またはゆっくりさで、プライベートにもパブリックにも暮らせる街。それが東京なのだと思います。
もし皆さんが、ニュアンスや暗黙の了解という日本独特のコミュニケーションを乗り越えたら、ご自身がそれまで歩いてきた道を振り返った時、きっと驚くでしょう。東京は私たちに、そのような体験をさせてくれる街だと思います。