豊泉恵理子さん(カナダ)

インタビュー&構成:徳橋功
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Eriko Toyoizumi
ハーブティーブランド共同運営者/飲食店マネージャー

写真提供:豊泉恵理子さん

英語が赤点続きだった私が今もここに。日本人ではし得ない貴重な体験が、私を今の場所へと導いてくれました。

 

 

 

前回ご紹介した”和のハーブティー伝道師”大内奈穂子さんに続き、そのお姉さんである豊泉恵理子さんをご紹介します。

姉妹でありながら、豊泉さんは大内さんとは真逆のケース。英語は大の苦手で、ご自身が海外生活をすることなど全く考えていなかったそう。しかしアメリカ人女子高生をご家族で受け入れたり、大内さんがアメリカで奮闘する姿を見つめたりする中で、ご自身も海を渡ることを決めました。

渡航先はカナダ。治安の良さに定評のある英語圏という理由から、留学やワーキングホリデーの目的地として人気の国です。実際に豊泉さんの派遣元であるインターナショナル・インターンシップ・プログラムス(IIP)を通じて、これまで1,500人以上がカナダに渡りました。しかしご自身が赴いた研修先で、日本どころか現地でもめったに見ることのない人たちに出会ったのです。

しかもその後、インターン修了から15年以上経った今でも、豊泉さんは現地でご活躍されています。

「あれ、英語が苦手じゃなかったっけ?」 – そんな疑問を抱かれる皆さん、ぜひ最後までお読みください!

*インタビュー@オンライン

 

ファーストフードと健康を愛する人たちへ

私は妹と一緒に”hidamari tea TOKYO”を立ち上げ、カナダから運営サポートを行っています。具体的には商品ラベルのデザインや、ブレンドする茶葉の効能リサーチ、取引先にお渡しする資料や書類の作成などバックオフィス業務を私が、日本での対面販売や営業など人に会う必要のある仕事は妹が担当しています。

hidamari tea TOKYOの商品が映えるラベルのデザインは豊泉さんの手によるもの。

それ以外にも私は仕事をしています。バンクーバーから北東へ約400キロ、ケロウナという街のフードコートにある某アメリカ系ファーストフード店のマネージャーです。2つのブランドの商品を1つの店舗で扱うという、一風変わった形態。たとえるならA社のハンバーガーとB社のポテトを同じ店舗のカウンターで注文できるといったもので、日本ではもちろん、カナダでも珍しいです。

「ファーストフード店で仕事をしながらハーブティー販売?」と驚かれると思います。でもhidamari tea TOKYOは、決して意識高い系の人たちのためのものではありません。体に悪いと知りながらついつい食べてしまうファーストフードを、私たちのハーブティーでプラスマイナスゼロにするイメージ。”ファーストフードを我慢したくないけど不健康にはなりたくない”(笑)という私たちから「ハンバーガーやアイスクリームも食べていい、でもハーブティーも添えてみてはいかがでしょうか?」という姿勢でご紹介させていただいています。

今のカナダでの暮らしができているのは、紛れもなくインターン経験のおかげ。私は2008年の秋から2009年の夏まで、カナダでスクールインターンをしました。学校の夏休み明けから夏休み前までの約9ヶ月間です。場所は国内4位の大都市カルガリーの郊外。しかし皆さんが普通に想像し得る一般のカナダ人とは全く違う人たちに接するという、大変貴重な体験をさせていただきました。それについては後で詳しくお話しますね。

 

英語はいつも”赤点”

もともと私は、妹とは真逆で、英語に全く興味が無い人でした。私は中学に入って以来、幸いにも受験とは無縁の学生生活を送ることができましたが、それゆえか私は中学入学後に勉強を放棄したのです。中学1年生から始まった英語の授業も、ABCの段階で「もう無理だ」と。高校卒業までの6年間、英語はほぼ赤点しか取ったことがありません(笑)

妹からのお話にもあったように、我が家で合計9ヶ月間、アメリカからの女子高生をホームステイで受け入れました。当時私は大学4年生でしたが、英語は苦手なままで、彼女と英語で話すことなどできるはずもありません。でも彼女は、日本に日本語を学びに来ていたのだから、むしろ頑張るのは彼女の方だ – そう思い、彼女が我が家に来たばかりの頃は”赤点英語”(笑)で何とか会話しながら、やがて”分かりやすい日本語を話す”ことに注力するようになりました。

 

長期休暇のつもりで海外研修

大学卒業後、20代前半の頃はネイリストとして働いていました。その後、レディースシューズショップでの販売の仕事に転職。2〜3年経験を積んだ頃「このまま日本にずっといるよりも、30歳になる前に一度離れてみるのもいいかもしれない」と思うように。私たち姉妹は東京というとても便利な街の出身だったから、敢えて日本国内の他の場所に移るモチベーションを持ちにくい。ならばいっそ”長期休暇”として、どこか別の国に住んでみたい・・・

当時はすでに、妹がアメリカでのインターンから帰国していた頃。海外を意識し始めたのは、彼女の影響が大きかったと思います。また我が家に滞在したアメリカ人の女子高生や、訪問した妹のホームステイ先のご家族との交流を経験したことで、外国に行くことに抵抗が無くなっていたのです。

20代だった私にはワーキングホリデー(以下ワーホリ)という選択肢がありました。しかし当時の自分の英語力では、”ホリデー”は楽しめても”ワーク”は難しいだろうと(笑)かと言って語学留学は費用が高い。そこで私は、滞在費を抑えられるIIPさん主催のインターンシップに参加することに。しかもプログラムは、すでに妹が参加していたことからその様子を聞いており、また当時の私の語学力でも対応できそうに思えたスクールインターン一択です。

周囲の人たちにその決断について伝えると「私には絶対にできない」の声。私はむしろ「何でみんなは一歩を踏み出せないのかな?」と不思議でしたが、おそらく「仕事を辞めたい」という思いが頭のどこかにあり、それが私の背中を押したのだと思います。

 

牛と馬と私

ワーホリで多くの人たちが考える行き先は、オーストラリアやカナダ。アメリカはワーホリの協定国では無いため、渡航先候補から外れました。しかし妹が行ったアメリカと同じ北米大陸にあり、しかも旅行で訪れたことがある両親より現地の様子を聞いていたことから、ワーホリを断念してもなお、私はインターン赴任先としてカナダを希望しました。

出発までの準備期間は、おそらく数ヶ月程度だったと思います。まずは英語力を身につける必要があると思い、某大手英会話スクールに通ったり、当時IIPさんが電話で提供していた英会話レッスンを受けたり。英語力が劇的に伸びたわけではありませんが”英語で話しかけられたら怖くて何も言えない”という状態は少しずつ克服できた気がします。

また英語以外での、日本文化を教えることへの準備については、妹がバーモントに赴任していた頃に使っていた教材や資料を、そのまま拝借することにしました。

こうしてインターン先が決まった頃、私のもとに届いた書類。すべて英語で書かれていたので全く分からず、妹の力を借りて解読したところ、ホストファミリーに関する情報でした。

自宅には牛や馬がおり、しかもその数は数十頭に及ぶ – 妹は「お姉ちゃん、どんなところに行かされちゃうの?」と心配に(笑)さらに読み進めると、その一家は牛を売るためのショーに出したり、カルガリーの都会人が所有する馬の世話をしたり、家畜を繁殖したりすることを代々生業としてきた・・・

全くイメージができないまま(笑)私はカナダへと出発。現地到着後、向かったホストファミリーのご自宅には、本当にたくさんの牛や馬がいました(笑)しかし、さらに驚くべきことがその先に待っていたのです。

ホストファミリーのご自宅周辺の様子。牛や馬がたくさん!
写真提供:豊泉恵理子さん

 

子どもたちよ 英語を話せ

これまで訪れた中で最も田舎にあるご自宅。そのご家族のホストマザーが先生として勤める学校が私のインターン先でした。

学校は、ホストファミリーの自宅から車で40分ほど行った場所にありました。そこは”フッター派”と呼ばれる人々のコミュニティ。フッター派とはキリスト教の一派で、一般社会と隔絶された暮らしをしている人たちです。

幼稚園から9年生(日本の中学3年生に相当)まで約30人の生徒がおり、2階建てのプレハブ校舎に集まって学ぶ形態です。各階に10〜15人程度の生徒が学年混合で勉強しており、幼稚園や小学校低学年が集まる1階、それ以上の学年の子どもたちが集まる2階を、それぞれ2人の先生が担当。同じ教室内で学年別に場所を分け、同じ科目を場所ごとに内容を変えて指導していました。私は基本的にアシスタントティーチャー的な位置づけで、1階の小さな子たちにアルファベットや算数を教えました。

私が子どもたちに日本文化を教えるのは、先生から依頼された時だけ。アーミッシュに近い文化を持つ彼らにとって、日本のことなど日頃は全く意識の外にあったと思います。そのような子たちに折り紙や書道などを教えたり、スタジオジブリのアニメのDVDを見せたり。日本食についても、資料で紹介するだけでなく、実際におにぎりや、あんこを使った白玉団子を作って彼らに試食してもらいました。

日頃、一般社会にあまり接することが無い子たちでしたが、私自身を含め、日本の文化は想像以上に受け入れられたように思います。休み時間などに、女の子たちにネイルをしてあげたこともあったほど。もしかしたら、フッター派の中でも比較的”緩い”コミュニティだったのかもしれません。

それでも私の服装 – 和服ではなく洋服 – を手に取って珍しそうに見られたことに驚きました。制服のような決まった衣装を身につける彼らにとって、とても興味深かったようです。ただ日本食については、妹のケースと同じく、お餅のテクスチャーや、甘い豆であるあんこに抵抗を示した子もいました。

その学校は、繰り返しになりますがフッター派の子たちが学ぶ場所。校舎内では英語が”義務付けられて”いましたが、一歩外に出たら・・・

全員、ドイツ語でおしゃべりしていたのです。そのためか、子どもたちの英語にはドイツ語のアクセントがありました。

 

他人に頼らず生きてみたい

そのような環境で過ごした9ヶ月。カナダに来たのが20代後半だったのですでに自立していたし、日本にいたときも親に頼っていたわけではなかったため、ホームシックにはなりませんでした。英語力は自信を持てるレベルにまで伸びたとは言えませんが、出発前に掲げていた「日本ではできない体験をしたい」という目標は、自ずと達成できましたね(笑)

ただ日本に帰国する前から、再びカナダに戻ることを決めていました。それは”カナダの一般社会に身を置くこと””海外で自力で生活すること”が実現できなかったから。前者については言わずもがなですが、後者についても、車が無ければどこへも行けない場所に滞在していたがゆえに、ホストファミリーが運転する車に乗せてもらうしか移動手段が無かったのです。

当時は20代。まだワーホリに参加する権利があり、すでに”ワーク”ができるくらいの語学力を身につけたと感じた私は、日本帰国の4か月後に再びカナダへ。場所はケロウナ – 今も私が住む街です。

 

あれよあれよと永住権

勤務先は、市内のフードコート。1つのカウンターで2つのファーストフードブランドを提供するお店 – つまり、今の職場です。ただ当時は、それ以外に日本食レストランでも働いていました。

私は1年で日本に帰るつもりでした。しかしいずれの職場も「もしまだカナダにいたいなら、就労ビザを出してあげるよ」とおっしゃったのです。

当初は日本食レストランの方でビザをサポートしていただくことになっていましたが、様々な要因から難航。そこへファーストフード店のマネージャーが「ウチで面倒見るよ」と言ってくれました。

そして実際に、申請が受諾されたのです。日本文化と直接の結びつきが無く、日本語スキルもほとんど求められない職場での日本人の就労ビザ取得は、とってもレアケース。おこがましいかもしれませんが、日本人の真面目さが現地で重宝されたのだと思います。

同じお店に数年勤務した後、職場からの勧めでさらに更新。やがて”永住権の申請に必要な職歴”を満たしたため、踏み切りました。

こうして現在に至ります。今も語学力に自信が持てていませんが、英語のネイティブスピーカーである同僚や上司と、長い間一緒に仕事をさせていただいています。しかもケロウナに来てから4年後に車を購入したので、もはや移動に不自由なし。かつてお世話になったホストファミリーにも、約8時間かけて車で会いに行くほどです。

英語が赤点レベルだった私が、今こうしてカナダで暮らせているのも、妹や両親が柔軟で、いろんなことを受け入れる人たちだったからでしょう。彼女たちの影響から、一般的には高く思えるハードルも、それほど高いと思わずにチャレンジできたのかもしれませんね。

 

きっかけは”どくだみ”

妹の日本での活躍を、私はカナダからいつも見守っていました。彼女が就職した時、料理教室”Yorokobi Kitchen”を立ち上げた時・・・そして日本のハーブティーを販売する”hidamari tea TOKYO”には、私自身もアイデア段階からかかわっています。きっかけは”どくだみ茶”でした。

妹の旦那さんが、ご自宅の庭に生えていたどくだみでお茶を淹れていました。しかし誰も飲んでいなかったのです。私が一時帰国していた時、もったいなく思い飲んでみたら、意外とおいしかった。その体験を妹とシェアしながら”工夫すれば美味しく飲めるハーブティーを紹介する”というアイデアが生まれました。

カナダでも、hidamari tea TOKYOのハーブティーを友人や職場の人に飲んでもらったことがあります。みんな「美味しい」と言ってくれますが、それはリアルに体験してくれたからこそ。一方で越境ECサイトでは、その味まで伝えきれません。パッケージだけでは魅力が伝わりにくく、この克服が今後の課題ですね。

 

カナダと日本 自在に往来

日本を出て、カナダに来て現地の人たちと話す中で、母国についてあらためて考えるように。それもインターン前では考えられなかったことです。例えば日本のお茶といっても、カナダにあるのはグリーンティーだけ。だからこそ「日本のハーブティーの美味しさを知ってほしい」という気持ちが芽生えてきたのだと思います。

永住権を取得したことで周りに誤解を生むかもしれませんが、私は決して”日本を捨ててカナダを選んだ”わけではありません。永住権があれば、次回更新までの5年間のうち、2年以上カナダにいれば良い。だから私も、こちらを拠点にしながら日本に帰りたいときに帰り、気が済むまで滞在して、再びカナダに戻るという生活ができています。

しかも職場が、そんな私のルーティンをサポートしてくれている。妹と同じ”食”の分野で仕事を続けていますが、それは偶然のこと。食へのこだわりはもちろん、そのような職場環境が私にとって心地良いから、今まで勤めてきたのかもしれませんね。

 

最後に決断するのは自分

若い頃は、カナダに住んで永住権を取ることなど思ってもみませんでした。まして英語が赤点続きだった中高生の頃の自分からは想像もつかないところに、今私は立っていると感じます。だって当時は「私は絶対に海外なんて行かないのに、なんで英語を勉強しなきゃいけないの?」と思っていましたから(笑)

その後は、自分でいろんな決断をしてここまで来ました。でも「全て自分ひとりで決めてきた」とは思っていません。自分だけで物事を決めていたら、きっと今でも日本にいたでしょう。

アメリカからの留学生を受け入れる家族や、アメリカで日本文化を伝える妹の姿を見、またカナダで出会った人たちのサポートをいただくうちに、自分の中にも少しずつ変化が生まれてきました。時に流されつつも、自分の意思で進路を選んできたことが、今に繋がっていると思います。

 

いつ行くの?○でしょ!

「行きたい!」という気持ちが芽生えたときに、勇気を出して一歩踏み出す – それが海外生活への最も大きな一歩だと思います。そのタイミングは、待っていてもやって来ないし、誰も教えてくれません。「行きたい」と思ったとき、それこそがご自身にとってのベストタイミング。その時に勇気を持って一歩を踏み出すのが良いのではないでしょうか。

実際に海外に出てみると、良い意味でも悪い意味でも予想外のことばかり。でもそれらすべてに柔軟に向き合えば、どんな経験もプラスに変わる。苦労したことも、捉え方次第で価値ある経験になると思います。

 

”違い”を楽しもう

もうひとつ、特に若い人には「日本と違うから間違っている」と考えないでほしいな、と思います。ただ”違う”というだけであって、間違っているわけではない – そう思えたら、海外での経験は絶対にプラスになります。

そして違いへの柔軟性は、国同士だけでなく、自分と他人にも当てはめることができると思います。

日本にいたとき、私は”周りと違う自分”を感じていました。でもカナダに来て自分が外国人になったことで、誰とも比べる必要がなくなりました。しかもカナダには移民が多く、みんな周りの目を気にすることなく、自分たちの文化を受け継ぎながら暮らしている。だから私も、周りを気にしない自分になれたのです。


妹さんの大内奈穂子さん(右)と。大内さんのインターンへの参加は、自身のその後のキャリアや生き方、そしてお姉さんである豊泉さんの人生にも大きな影響を与えました。そのストーリーはこちらからどうぞ。
写真提供:豊泉恵理子さん

 

あらゆる違いを柔軟に受け入れ、楽しむことができたら、その後どこで生活しようと、その経験はプラスになると思います。

 

豊泉さん関連リンク

hidamari tea TOKYO
・オンラインショップ:shop.hidamaritea.tokyo/
・Instagram:instagram.com/hidamari_tea_tokyo/
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インターナショナル・インターンシップ・プログラムス(IIP):internship.or.jp/

 

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