大内奈穂子さん(アメリカ~日本)
インタビュー&構成:徳橋功
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Nahoko Ouchi
和のハーブティー伝道師
海外で教え伝えた経験が、私を”自分が歩みたい未来”に出会わせてくれました。
これから2回にわたり、春の季節にふさわしい素敵な姉妹をご紹介します。インターナショナル・インターンシップ・プログラムス(以下IIP)を通じて海外の子どもたちに日本文化を伝えられたお2人です。妹さんはその知見を日本で活かし、お姉さんは日本人の特性を海外で活かしてきました。その2人が今、海を越え手を取り合い、国産ハーブティーの普及に取り組んでいます。まずはその事業の最前線に立つ妹さん、大内奈穂子さんのエピソードです。
大内さんは学生時代から英語熱が高く、海外にもご興味をお持ちでした。そんな大内さんは、留学や海外就職ではなく”インターン”と”日本への帰国”を、ご自身の確固たる意志で選ばれました。
ここで振り返るのは、My Eyes Tokyo(以下MET)編集長である徳橋の足跡。彼も留学ではなくインターンを選び、その後はアメリカで就職。やがて「どこにいるかより、何をするかが大事なのだ」と悟り、日本に帰国しMETを立ち上げました。
きっとご本人にとっては大迷惑かもしれませんが(汗)大内さんと徳橋の姿が重なったように思えました。METのメッセージは「自分が自分らしくいられる場所に行けばいい」。大内さんのストーリーを、真の自分らしさや、本当に心地良くいられる場所を求めている方々に贈ります。
*インタビュー@東京都立川市
Made in Japanの薬草茶
現在、私は姉と一緒に”hidamari tea TOKYO”というブランドで、国産素材のみを使った和のブレンドハーブティーを販売しています。国内外の方に日本の薬草茶の魅力を伝えることを目指し、今はオンラインや、マルシェなどでの対面販売、他にも飲食店などへの卸をしています。
JR立川駅そばで毎週火曜日に開かれるマルシェでの販売。偶然立ち寄った訪日観光客の方が購入したことも。主に宮崎県や和歌山県の農家さんから茶葉を取り寄せる一方、地元・立川産のウコンやジンジャーをブレンドしたティーも紹介している。
ハーブティーについて学んでいた私と、ネイリストの経験があり、アロマやマッサージなど美容を学んでいた姉の趣向、さらに私たち2人が持つ長年の飲食店での経験が重なり、自分たちが日本人であることを生かして”日本のハーブティー”を紹介する事業を共に立ち上げました。和を伝える言葉をいくつか考え、海外にも届くようにアルファベット表記にして並べた中で”hidamari(陽だまり)”を選び、私たちのブランド名に入れました。
姉と「いつか一緒に何かしたいね」と話し合っていたことが形になり、それぞれの得意分野を活かして自然と役割分担ができました。また茶葉が扱いやすく保存も利くことも、私たちにとって魅力でした。
私はこれまで、主に食の分野で活動を続け、日本食や、日本のハーブティーを紹介する事業を立ち上げてきました。これらのきっかけとなったのが、インターンでの渡米でした。
「海外なんて二度と行かない!」
私は2004年10月から2005年6月までの約9ヶ月間、IIPさんが提供する”スクールインターンプログラム”に参加。アメリカ東部バーモント州にある学校で日本文化を伝えました。当時は日本の大学の3年生で、英語や英文学を学んでいました。3年の前期を終えたあとに1年間休学し、その間にインターンとして渡米。帰国後に3年の後期から復学しました。
英語に興味を持ったのは、中学でその授業が始まってから。何でも器用にソツなくこなす私の3つ上の姉さえも、英語と格闘する姿を見て「私にできるはずが無い」と思い込んでいました。しかし教科書に載っていた簡単な英文を辞書を使って理解する過程が、暗号を解くみたいで、その楽しさに一気にハマったのです。また中学2年生の頃に家族でハワイに旅行した時、部活で参加できなかった姉の代わりに、大学で英語を学んでいた従姉が加わり、現地でネイティブと堂々と会話している彼女を羨望の眼差しで見つめていました。
憧れを現実にするために、私は英語教育に力を入れている高校に進学。1年生のときにアメリカで約40日間のホームステイに参加しました。本場の英語に触れることができるチャンスに心躍るも、到着後に大変なホームシックになってしまったのです。帰国後は「もう二度と海外には行かない!」と誓ったくらい(笑)
でも英語は変わらず好きでした。だからアメリカで挫折を味わったまま終わることに、悔しさを覚えるようになったのです。このままでは負けて終わってしまう。もう一度海外に行って「良い経験ができた!」「楽しかった!」と言えるようになりたい – 私は交換留学制度のある大学を選び、国内外で英語をしっかり学ぼうと考えました。
入学後に行われた、交換留学の説明会。留学中に取得した単位がそのまま私の大学の単位として認定されるので、同級生と卒業時期がずれることが無い – 他の人たちと歩調を合わせることに心地良さを感じていた当時の私にとって、それが魅力でした。しかし、その道を選ぶことはありませんでした。
女子高生が気づかせてくれた
アメリカの大学に行ける制度。しかし”専攻”が、私にとって壁となったのです。
経済や政治、文学など、専攻には様々な選択肢があります。しかし当時の私にとっては”学びたいこと=英語”。考えた末、日本にいながら英語を学ぶ環境のほうが自分に合っているように感じ、大学留学を見送りました。また語学留学も”日本でできることをわざわざ海外で行う”ものだと思い、選びませんでした。
進路を切り替えた瞬間、自分の中に今まで持ちえなかった考えが生まれました。「日本語や日本文化を学びたい人たちをサポートしたい」 – 高校時代、野球部のマネージャーとして、頑張る選手たちを支えていた経験が、そう思わせたのかもしれません。
そこで私は、海外から日本に勉強に来る人たちの受け入れを両親に提案。つまりホームステイです。それが許され、私が大学1年の頃、アメリカから来た女子高生を我が家に迎えました。合計9ヶ月間生活を共にする間、私は彼女と基本的に日本語で話し、彼女が困った時だけ英語に切り替えて会話をしました。
それらを経て「私は誰かのサポートをすることが好きなのだ」と悟りました。同時にアメリカ人の女子高生との会話を通じて「もっと自然で、現地の生活に密着した英語を話せるようになりたい」と・・・
すべては日本文化を伝えるために
その時、思い出したのです。大学入学前に通っていた予備校の英語講師が、私にあるものを教えてくれたことを – それがIIPさんによるスクールインターンプログラムでした。
”日本文化を紹介する”という目的がきちんとあり、一人の学生に過ぎない私でも”日本人”として海外の人たちに貢献できる。海外で生活ができ、しかも周りに日本人がいない環境に派遣される – そんなプログラムに魅力を感じ、大学2年生の時に派遣元であるIIPさんに登録しました。希望の渡航先は、もちろんアメリカです。
出発まで約1年。私は特に英語を勉強することはしませんでした。英語は現地で自然に身につくと考えていたからです。それよりも「日本文化をしっかり伝えたい」という思いの方が強く、その準備に力を入れていました。私が通っていた小学校の授業を見学させていただいたり、スクールインターン向けの日本文化およびその指導方法を学ぶセミナーに参加したりしながら、日本の教育や文化などについて紹介できるよう備えました。
知らないものは知らない できないものはできない
私が赴いた米バーモント州は、とてものどかな田舎。自然豊かで、日本では見られない壮大な景観に圧倒されました。お世話になったホストファミリーはとても良い人たちで、しかも家族構成が私の実家と全く同じ3人姉妹の5人家族+犬1匹。しかもホストファザーとホストマザーがいずれも学校の先生で、私が派遣された学校で働いていたのです。さらに子どもたちはそこの生徒。これらが9ヶ月間滞在する上で、とても大きな安心材料となりました。
私の研修先の学校は、幼稚園から高校までの一貫校。毎朝、家族全員で学校に通いました。ホストマザーが3年生の担任で、そのクラスに私の席も用意していただきました。私の受け入れの窓口となったのは別の先生でしたが、その人も日本文化に興味を持ち、私の活動にも大変協力的だったため、とても動きやすかったですね。学校側のリクエストに応じて、日本文化紹介の道具一式を抱えて幼稚園から高校までいろんなクラスに行きました。
ただそれだけでは時間を持て余してしまいます。だから私は他の先生たちにも「何かできることがあれば教えてください」と声をかけ、活動の場を広げていきました。例えば小さい子たちには日本語の絵本を読み聞かせしたり、高校生には日本という国について教えたり。学年に合わせて内容を変えていました。
それまで教える経験はなかったものの、ある程度経験のある書道については、実技も含めて指導できると思っていました。一方で、茶道や着物の着付けなど知識が乏しい分野は無理に教えず「ここまでは説明できる」と伝えたうえで、必要に応じて資料を用意し対応しました。知識のないことを適当に話すのは、それらに真剣に取り組んでいる方々に対して失礼なこと。そのため私は”自分にできる範囲で丁寧に伝えること”を大切にしていました。
神社・お寺・クリスマス – アメリカ人の反応は?
学校では、生徒たちの誤解に驚くことがよくありました。私が「日本から来ました」と言うと「昨日チャイニーズレストランに行ったよ」と言われたり・・・彼らが中国・韓国・日本を同じ国であるかのように見ていることを感じました。
ただ一方、”大晦日にお寺に行き、お正月に神社に行く一方で、クリスマスも祝う”といった私たちの習慣を彼らに伝えたとき、日本人が宗教心に欠けているように思われるのではないかとハラハラしました。しかし子どもたちが「それってコンビネーションだね!」とポジティブに受け止めてくれたことが印象に残っています。
それまで日本や日本人に接することがほとんど無かった彼らが、少しでも「日本って面白そう」「行ってみたい」と興味を持ってくれたら嬉しい – そのような思いでインターンに取り組んでいました。だからこそ、もし私が変なことをすれば「日本人って変わっているね」と思われてしまう。そのため自分の行動にすごく責任を感じていました。
一方、高校時代のアメリカでのホームステイでトラウマになっていたホームシックなど、想像していた不安なことは一つも起きませんでした。日本人が周りにいない環境だったので、語学も自然と上達。インターン修了後に振り返っても「行ってよかった」という気持ちしかありません。ただもしかしたら、高校時代に40日間の短期滞在を経験していたからこそ、だったかもしれませんね。
白玉団子とチキンライス
日本文化の中でも”食”は、私にとって現地の人たちに伝えたい、とっても大事なこと。学校では日本食を紹介する機会もいただき、巻き寿司を作って提供しました。また四角い卵焼き用のフライパンを持って行って実際に卵焼きを作ったり、料理好きの先生にプレゼントしたりしました。
ただ白玉団子を作った時は、子どもたちから苦手そうな顔をされましたね。”甘い豆”であるあんこにも抵抗を示されました(笑)
ホームステイ先でも週に1回、私が夕食を作る機会をいただきました。その時は腕によりをかけて和食を作り、ご家族に日本食を召し上がっていただきました。実はホストマザーが日米のハーフ。彼女はアメリカで生まれ、ご家庭内で日本語を使ってこなかったために日本語は話せなかったのですが、おばあさまが沖縄からアメリカに移住してきた背景から、ご家族はもともと日本文化にご興味を持っていました。
そのため私の活動には大変協力的でしたし、彼らからも「今度クリスマスクッキーを一緒に作らない?」と声をかけていただいたり、ターキーの調理を間近で見せてもらったり。私が日本食を紹介するだけでなく、私自身もいろんなことを教えてもらいました。
興味深かったのは、日米共通にある調味料。例えばケチャップは、アメリカではフライドポテトを軽くディップする程度に使う一方、日本ではチキンライスやナポリタンのソースとして使いますよね。ホームステイ先でケチャップを使ってそれらの料理を作ったら、ご家族から驚かれました。あらためて日本食の面白さを感じましたね。
食の道を突き進む
インターンを経験したことで、将来のキャリア観が”英語+少しだけ食”から”日本の食文化紹介+少しだけ英語”へと大きく変化しました。英語をメインにするより、それを趣味として楽しみつつ、食の分野でキャリアを築く方が自分に合っていると感じたのです。
帰国後はチェーンのカフェでアルバイトを開始。外国人も時々来店することから、現場経験を積みながら英語も使える環境に満足していました。
そんな中、常連客だったニュージーランド人が経営するサンドイッチ専門店を訪れる機会がありました。お料理のクオリティが高く、スタッフ間の会話も主に英語で、外国人や、外資系企業に勤める日本人の来店客が中心 – 私にとって理想的な環境だと思い「ぜひここで働きたい」と申し出て、採用されました。
お店で唯一の日本人スタッフとして5年間勤務し、英語力がさらに伸びただけでなく、調理師免許取得への意欲も生まれました。業務も調理以外に、業者さんとの交渉時の通訳や、行政関連書類の作成も担いました。
その後、年齢を重ねても続けられる仕事を模索し、フードコーディネーターの資格取得や料理教室のアシスタント経験を通じて、人が美味しく食べるための食事を作ることや、作り方を教えることにやりがいを感じるようになりました。
波に流され たどり着いた場所
結婚を機にニュージーランド人経営のお店を退職後、2016年秋頃に料理教室”Yorokobi Kitchen”を立ち上げました。コンセプトは”外国人観光客への日本の食文化の紹介”。ちょうど当時、東京オリンピックに向けてインバウンド需要が高まっており、友人の紹介でつながった旅行代理店などを通じて訪日観光客が教室に参加してくれました。
しかしコロナの影響で予約が全てキャンセルに。その後も続ける道を探して試行錯誤するも、2人目の子どもの出産を機に休業を決意。あくまで教室は終了ではなく“お休み”とし、タイミングが来たら再開するという柔軟なスタンスに切り替えました。
そして2022年10月、国産ハーブティーブランド”hidamari tea TOKYO”を立ち上げ。もともとお茶は好きでしたが、緑茶など競争の激しい定番商品ではない、まだ知られていない日本の物品の中から、扱いやすさや続けやすさを重視して、薬草茶にたどり着きました。
私たちは、健康志向を強く押し出すことはしません。「日々の食生活に、ちょっと健康的なものを取り入れる」- これが私たちのメッセージであり、同じような価値観を持つ人たちに届くことを目指しています。
現在は越境ECでの販売もさせていただいていますが、海外からの購入実績はまだ少ないのが現状。まずは日本に住む外国人や訪日客に味を知ってもらうことを優先し、国内での実績を積み重ねたうえで、徐々に海外展開を目指していこうと思っています。
芽生えた母国への誇り
これまでの私の活動の軸は”食””英語””国際交流”。それらを形作ることができたのは、間違いなく私のアメリカでのインターン経験のおかげです。起業して始めた料理教室やハーブティー販売も、その軸に貫かれています。
アメリカでは、失敗したことが批判されるよりも、チャレンジしたことが評価されます。そのような環境に身を置くことで挑戦することへの心理的ハードルが下がったり、日本だけの価値観に縛られずに広い視野で物事を見られるようになったり・・・今の活動は、それらの経験の上に成り立っていると感じます。
一方、日本に対する誇りも生まれてきました。インターンに行くまでの私は、どちらかというと”海外に憧れる人”。でも実際に外へ出ることで、あらためて日本の素晴らしさに気づいたのです。
ただし国際交流の場では、相手の文化をきちんとリスペクトすることが大前提。自分の文化を押し付けるのではなく”相手に知っていただく”という思いです。それも、今の私を貫く軸になっています。
小さくてもいい 最初の一歩は大きなステップ
私は英語が好きでしたが、それでも海外に行くことに対してすごく勇気を必要としました。決して”英語が好きだから簡単に行けた”というタイプではありません。”英語が好き”と”海外に行く”は、全く別の次元の話です。
海外に行くのは、本当に勇気がいることだと思います。私自身もすごく悩みました。
でも勇気を出したり行動したりすることは、持って生まれた才能や実力とは関係なく、子どもでも大人でも誰にでも平等に与えられた”力”です。少しでも興味を持ったら、勇気を出して、小さくても良いので一歩踏み出していただけたらと思います。
最初の一歩は、すごく大きく感じるかもしれません。でも自転車と同じで、乗る前は倒れることを想像して怖くなる一方、いざ漕ぎ出したら自然とスピードに乗っていけるもの。海外生活にも同じことが言えると思います。
少し勇気を出して、行動してみる。それを積み重ねていくことで、振り返ったときに「ここまで来たんだ」と思えるようになる。そのような経験が、皆さんを成長に導くものと信じています。
お姉さんの豊泉恵理子さん(右)と。現在はカナダでhidamari tea TOKYOのバックオフィス部門を担う豊泉さんも海外インターンを経験され、しかもそのエピソードは驚きの連続!アップまで楽しみにお待ちください。
写真提供:大内奈穂子さん
「海外に行きたい!」と願う人なら、きっと最初の一歩を踏み出せる。いろんな人に触れながら、ご自身に起きる変化をぜひ楽しんでください!
大内さん関連リンク
hidamari tea TOKYO
・オンラインショップ:shop.hidamaritea.tokyo/
・Instagram:instagram.com/hidamari_tea_tokyo/
インターナショナル・インターンシップ・プログラムス(IIP):internship.or.jp/
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