阿部功一郎さん(東南アジア)

インタビュー&構成:徳橋功
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Koichiro Abe
海外ホテル 部長職

※写真提供:阿部功一郎さん

 

 

 

日本でダメダメだった僕は、海外で受け入れられた。今では現地が”ホーム”です。

 

 

 

 

 

今回は久しぶり”My Eyes Tokyo(MET)長年の友人シリーズ”をお送りします。

阿部功一郎さん。現在はタイにあるホテルに勤務しています。これまでも東南アジア各国のホテルを渡り歩いてきた、言わば”流しのホテルマン”。そんな阿部さんに、MET編集長の徳橋が初めて出会ったのは、今からさかのぼること13年前。場所はアメリカです。

時は2012年3月。当時、千葉県四街道市の国際交流協会に広報担当として在籍していた徳橋は、当市と姉妹都市関係にあるカリフォルニア州リバモア市への短期留学に参加。その時に同じグループにいたのが、大学生だった阿部さんでした。

なぜか分かりませんが(笑)お互いに意気投合し、日本に帰国後も連絡を取り合う仲に。MET主催のプレゼンイベント「Mechakucha Night」にご登壇いただいたり、阿部さんのご提案でJR/京成成田駅そばにある航空会社クルー御用達バーで英会話をしながら飲む企画を行ったりしました。

それから時が経ち、約10年ぶりにオンラインで阿部さんに再会。すっかり自信と満足に満ちた顔つきに。新卒入社した会社で心身ともに疲弊し、やせ細っていた阿部さんの姿が目に焼き付いて離れなかった私たちにとって、その変化は驚くべきものでした。

阿部さん独自の英語学習法、そして海外就職で成功を収めるまでの道 – 自分が自分らしくいられる場所を探している方々にお届けします。

*インタビュー@オンライン

 

転職+海外就職=スピード出世

僕は現在、タイの首都バンコクにあるホテルでセールスディレクター、日本語で言う”営業部長”として働いています。この職場は僕にとってまだ新しく、今年(2025年)2月に入社したばかり。それまで僕は、日本と東南アジアで計10社に勤務してきました。しかも日本での社会人生活は計4年程度で、それ以外の約8年は海外生活です。

「10回も転職!?」と、皆さんは驚くかもしれません。でもこれらは、僕なりに戦略を立てて行ったもの。その結果として30代にして部長にまで登り詰め、しかも収入は新卒入社時に比べ約4倍にまで増えたのです。

海外生活が長いですが、僕は生まれも育ちも日本。旅行ですら海外に行ったことが無い両親のもと、外国にほぼ無縁の家庭環境で過ごしました。長期の留学経験もありません。TOEICの点数は、今でも平均より少し上くらいでしょう。しかも日本で働いていた頃は、昇進とは全く無縁の社会人でした。

今ではすっかり、暑さと湿気と街の活気に肩まで浸った”東南アジアの人”。もはや僕にとっては現地が”ホーム”です。だから日本に帰ってくると、現地とは真逆の静けさに戸惑い、まるで外国人になったような感覚になりますね(笑)

 

すべては欲望から始まった

英語にはもともと興味がありました。そのきっかけは、音響機器メーカーに勤務していた父とピアノの先生だった母が家や車で流していた洋楽です。中学の英語の授業でビートルズの『Love Me Do』を先生から紹介され、それが子どもの頃から耳にしていたものと同じであることに気づきました。幼い頃からピアノを弾いたり和太鼓を打ったりしていた音楽好きの僕は、カラオケで歌えるようになりたい一心で、貪るようにビートルズナンバーを聴くように。

高校卒業の直前、父から「これからの時代は英会話が大事」と言われ、大学進学までの時間を使い日本人同士で英語を話すサークルに参加。電子辞書をたたきながら単語を口にするレベルから始まりました。

入学した大学ではESS(English Speaking Society)に入るも、実は単なる飲みサークルだと分かり退会。その後は日本在住外国人への日本語指導ボランティアや、都内の駅で外国人観光客に案内するアルバイトを通じて海外から来た人たちとのコミュニケーションを楽しみ、さらに大好きな洋画から抽出した音声を移動中に聴いたり、登場人物のセリフをシャドウイングしたり、プレステ2の英語版で遊んだり・・・それらを勉強と思ったことは無く、趣味として英語に触れ続けていました。

 

忘れ物が深めた絆

大学1年のある日、母が「こんなのがあるよ。行ってみたら?」と、あるお知らせを見せてくれました。それは”姉妹都市短期留学事業”。僕の地元である千葉県四街道市が40年以上交流を続けている、米カリフォルニア州リバモア市での約1週間の滞在です。参加者は四街道市内の希望者から選抜された中学生たちと、訪問団と呼ばれる高校生以上のグループ。言うまでもなく、僕はそのチャンスに飛びつきました。

こうして赴いた、初めての外国の地。リバモアに到着後、慣れない時差により体調を崩して寝込みましたが、若かったのですぐに回復(笑)他の参加者たちとサンフランシスコ界隈を視察したり、自由時間にアイスホッケーの試合を見たりサーフィンに挑戦したり。今よりはぎこちなかったかもしれませんが、日本で鍛えた英語力で彼らとの交流を楽しみました。またホストファミリーだけでなく、そのご友人一家とも仲良くなったのです。

しかしその時撮影で使ったデジカメを、僕はリバモアに忘れてきてしまった。二度と僕のもとに戻ってくることは無いだろう – そう諦めていた僕に、日本に旅行に来たホストファミリーが直接手渡してくれたのです。そんな奇跡が起きたリバモアが懐かしく、僕は大学3年生の終わりごろ、再び姉妹都市交流事業に参加。徳橋さん(MET編集長)とご一緒したのは、この時でしたね。その前にカナダのバンクーバーに短期留学してさらに英語力を磨き、日本まで僕のカメラを届けてくれたご家族に3度目の再会。そしてこの時は別のご家族 – 1回目のリバモア訪問の時に仲良くなり、帰国後もFacebookでメッセージのやり取りを続けていた人たち – のご自宅にステイさせていただき、貴重な時間を共に過ごしました。

※当時の様子を伝える記事(四街道市国際交流協会HPより)。一番下に掲載の写真に、阿部さんとMET徳橋が写っています。

 

”外資系=英語”じゃない!

その後迎えた、就職活動シーズン。僕は”英語”と”海外”をキーワードに、主に外資系企業を中心に応募しました。その中から某メーカーに内定をいただき、大学卒業後に営業職として入社しました。

しかし期待とは真逆で、外資系企業と言えども英語を使う機会はほとんどなく、実際は国内の工場や農家などに製品を売り込む泥臭い営業。本国から派遣された数人を除き、社員は全員日本人だったため、営業成績が振るわなければ先輩や上司から”詰められる”という、思い切り日本的な職場環境だったのです。「このまま続けるのは難しい」と判断し、入社9ヶ月で退職。すぐにでも離れたかったので、転職先を見つける前に”脱出”しました。

 

憧れに手が届く

その後、当時ホテルが舞台のドラマを見ていた母の勧めで(笑)ホテル業界に狙いを定め、実家から近い成田空港のそばにある外資系ホテルに応募。僕が少し英語が話せることを入社面接で伝えると、彼らは「いつから来れる?」と。成田のホテルでありながら、実際には僕が同僚の中で一番英語力があったくらい、レア人材だったようです。こうしてフロント担当として入社し、僕のホテル人生がスタートしました。

約3年間成田でホテルマンとしての基礎を学んだ後、いよいよ東京へ。都心にある外資系ホテルに転職しました。空き時間に同僚や先輩と話していた時、彼らがモルディブや北京、バンコク、ハワイなどにあるホテルに勤務した頃の体験を聞かせてくれました。「外国のホテルで働けるんだ!」と、それまで憧れに過ぎなかった海外就職が自分の手の届くところにあることを感じました。

僕は早速、人材募集中の海外ホテルをネットで検索。一生懸命作った英語の履歴書をドバイやシンガポール、バンコクなどのホテルに送り、それら全てから内定をいただきました。僕は各地の物価や給与、住居環境を天秤にかけ、ベトナムの首都ハノイにあるシンガポール系のホテルを選び、入社を決めました。

 

海外で”王様”になる

ついに実現した長年の夢。ハノイでは、ホテルの客室に住みながら働ける環境が整っていたため、初めての長期海外生活にもスムーズに適応できました。しかも家賃がゼロで、ホテル内のレストランのメニューも全て無料。他の設備やサービスも無料または安価で利用できたため、まるで王様になった気分でしたね(笑)日本の職場の給与額よりも低かったものの、手を付けずにほぼ全て貯金に回すことができたため、結果として日本にいた時よりも可処分所得が高くなったのです。

成田や都内のホテルで英語を日常的に使っていたし、プライベートでも”Meetup”などのアプリを使いパーティーやイベントに参加して、いろんな国々から日本に来た人たちと交流してきたので、語学力には自信がありました。しかも日本語が堪能な韓国人の営業担当や、日本の学校からインターンとして来ていた学生さんたちがいたので、初めての海外就職にも躊躇は全くありませんでした。

 

スピード出世&年収大幅UP

入社当初は日本でのホテル勤務時と同じフロント業務に従事。入社半年後に上司の勧めで営業職に転向しました。外資系メーカー時代の経験が生きたのか、このキャリアチェンジもスムーズでしたね。日本企業や旅行代理店向けに、宿泊はもちろん、イベント開催時やVIPとの会食時などにホテルを利用するよう勧める仕事は、外資系メーカー時代と同じ営業職ではあったけど、様々な分野で活躍する人たちと出会えることが醍醐味でした。

楽しんで仕事をしていたからでしょう。営業成績も良く、入社9ヶ月目にしてマネージャーに就任しました。当時の僕は26~27歳。日本のホテルなら40歳ごろにようやく就ける役職です。「外国の企業って、こんなに早く昇進するんだ!?」と驚きましたね。しかも月収も日本円で5万円アップ。日本企業なら上昇額は5万円 – ただし年収にして – ではないでしょうか。

海外で働くことの楽しさを実感した僕は、その後もシンガポールやホーチミン(ベトナム)ジャカルタ(インドネシア)と、東南アジア各地でキャリアを積み、現在のバンコクへと至ります。

 

屈辱のレイオフ そして復活

僕の任務は、どこに行こうが”日本市場の獲得”であることに変わりありません。日本の企業や人々がホテルを利用してくださるからこそ、僕の現地での存在価値があるわけです。

しかし一度それが果たされなくなったら – 現地の人たちの数倍の給与を支払ってまで日本人を雇う必要は無くなるでしょう。

その状況は、コロナ禍で顕著に表れました。そして僕にもその影が及びました。シンガポールから再びハノイに移り、現地ホテルに勤務していた頃、職場からレイオフに遭ったのです。その気配を察知し、僕は興味のある企業全てに履歴書を送りました。そしてコロナゆえに人材を募集していたシンガポール系の医療系企業で、営業担当として働くことに。先ほど挙げた東南アジアの都市のうち、ホーチミンへは医療系業務、ジャカルタへは医療系とホテルでの赴任です。他にも医療系の仕事で半年ほど大阪にも赴任しました。

でも視点を変えれば、やはりラッキーだったと言えます。ハノイやシンガポールのホテルで営業を経験したからこそ、医療という全く未知の分野でも同じ職種で採用されたわけですから。そしてその源は、ブラック企業とも言える新卒入社の外資系メーカーでの経験。今ではむしろ、あの会社に感謝しているくらいです。

 

”気合”は一切不要

僕がこれまでに送った履歴書の数は、1万を越えるでしょう。そうして実際に面接に進んだ時、日本企業と海外企業との間に顕著な違いがあることに気づきました。

日本の企業は、このインタビューのように(笑)”これまで何をやってきたか”を細かく聞きます。一方で海外の企業が聞くのは”今、何をやっているか”。特に非日系企業からは、まず過去のことは聞かれません。”現在従事している仕事は何か””その経験で当社にどのように貢献できるか” – これだけです。僕がホテル業界を一旦離れ、医療系企業に移った時も、面接時に「自分には医療の仕事の経験はありませんが、営業なら自信があります」と伝え、採用されたのです。

「俺は(私は)海外で働いて生活するんだ!」と気合を入れる必要など、僕は無いと思います。実際に僕が海外1社目のハノイのホテルに就職した時も「ここに最低でも3~4年はいよう」などとは考えませんでした。あたかもバックパッカーやノマドワーカーのように、いろんな国に住みながら働く感覚で、気楽に海外就職を考えていい。今の時代なら、オンラインで企業を探し、オンラインで履歴書を送って、オンラインで面接まで実施。採用されたらパッと現地に行く。もし海外で違和感を抱いたり、思うような実績を出せなかったりしたら、また日本に帰れば良いだけです。

将来のことも、そこまで深刻に考えなくても良いと思います。僕が東京都心のホテルに勤務していた頃、職場でも街でも東京オリンピックへの気運が高まっていました。もし僕が海外で就職し、オリンピックまでの数年の間に管理職にまで登り詰めたら、日本に帰国してその経験を還元しよう – そう考えていました。しかし実際は、今も海外にいる。ただそれは、先ほど言ったように入社わずか9ヶ月でマネージャーになり、プランに狂いが生じたから(笑)本当に先のことは読めないものです。

 

置かれた場所で咲けなくても

そしてもうひとつ。「日本で活躍できなければ、海外で必要とされる人材になんかなれない」とは思わないでください。僕自身、海外就職の理由の半分は”逃げ”です。外資系メーカー時代は言わずもがなですが、その後転職したホテル業界でも、僕は疲れていました。

数年勤務してもチームリーダーにすらなれず、後から入社した年下の女の子の方が、僕より先にその役職に就いた。僕はどちらかと言うと”我が道を行く”タイプで、周囲から浮いていたことを自覚していたから、半ば「しょうがない」と思いつつも「ここで頑張っても、俺は多分ダメなんだ」と諦めました。しかし海外に移った瞬間、ありのままの自分が受け入れられ、入社1年を待たずにマネージャーに抜擢されたのです。


ジャカルタにて
※写真提供:阿部功一郎さん

 

もし日本の職場環境や生活環境が合わないとお感じなら、そこにご自身をずっと停滞させておく理由はありません。人生は一度きり。いろんな国に行き、いろんな会社での勤務を経験し、いろんな同僚たちに囲まれて、いろんな上司に出会えたら、人生はきっと楽しくなると思います。

 

My Eyes Tokyo

Interviews with international people featured on our radio show on ChuoFM 84.0 & website. Useful information for everyday life in Tokyo. 外国人にとって役立つ情報の提供&外国人とのインタビュー