齊藤恵子さん(ニューヨーク)
インタビュー&構成:徳橋功
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Kay Saito
米企業人事部長/インスピレーショナルスピーカー/スピリチュアル実践コーチ

自分でチャンスをつかみ取ったかに見える私の人生。でも実際は、チャンスに導かれて今まで生きてきたのでしょうね。
もうすぐゴールデンウィーク。北海道の北部を除き、桜の季節が過ぎ去った今も、たくさんの人たちが海外から日本にいらしています。そして今回ご紹介する方が住む街も、これから観光のベストシーズンを迎えます。アメリカ・ニューヨークでビジネスパーソンおよびコーチとして活躍されている齊藤恵子さんです。
私たちが齊藤さんに出会ったのは、約10年前。My Eyes Tokyoが昨年インタビューした国際研修団体”インターナショナル・インターンシップ・プログラムス”(以下IIP)のプログラム責任者である栗林央さんご企画の、インターン経験者を交えた食事会です。参加者の中で唯一海外、しかも生き馬の目を抜くメトロポリスでご活躍を続けられていたことが印象に残り「いつかじっくりお話を聞きたい」と思い続けてきました。そしてついに齊藤さんとのインタビューが実現しました。
私たちからのどのような質問に対しても、ハッキリとした口調でご回答される姿に、長年のアメリカ暮らしや、ニューヨークでキャリアを築かれてきたことから生まれる自信や気概を感じました。しかし話題が”海外渡航前”、つまり日本にいた当時のことに及ぶと、途端に”90年代あるある”エピソードがあふれてきたのです。
自分らしくいられる場所を探している方々にお贈りする、齊藤さんのライフヒストリーです。
*インタビュー@オンライン
支援するのは”あの頃の私”
私は現在、米系ITコンサルティング会社で人事部長を務めています。ニューヨークやシリコンバレー、ダラスにオフィスがあり、私はニューヨークオフィスに勤務。アメリカとはいえ、IT業界はまだまだ男性社会で、社内で部長を務める女性は私だけです。
一方で私は、個人としてコーチをしています。もともとはキャリアコーチでしたが、経験を通じて「人生の問題を避けてキャリアサポートを提供するのは難しい」と感じ、ライフコーチに転身しました。コーチ歴は今年(2025年)で通算13年目で、主なクライアントは30代~50代の日本人。特に40代の方が多いですね。
この世代には、努力や根性を重視してきたものの、時代の変化に適応できず、行き詰まりを感じている方々が少なからずいらっしゃいます。その人たちが縛られてきた古い価値観や思い込みから解放され、人生にブレークスルーを起こすためのコーチングを行っています。”何を得るか”より”何を手放すか”を重視し、新しい生き方を一緒に模索する感じです。以前はアメリカ人向けにもコーチングをしていましたが、現在のクライアントは100%日本人。男女比は半々です。
その人たちの多くは、現在アメリカにいらっしゃる方や、日本に住むアメリカ在住経験者。総じて海外志向の強い方々ですね。彼ら彼女たちは、私が歩んできた道を、今まさに辿っていると言えるかもしれません。
お茶くみからのエクソダス
私がアメリカでキャリアを積むきっかけとなったのが海外インターンです。IIPさんが提供するビジネスインターン(現ワーク&カルチャーインターン)プログラムを通じて、1997年から1998年にかけてハワイにあるホテルでインターンをしました。
ハワイへ発つ前、私の職務経験はほぼ無かったと言っても良いと思います。大学卒業後にある企業に入るも、当時の女性の仕事といえばお茶くみにコピー取り、男性社員のデスクを拭く・・・。「私はこんなことをするために大学に行ったわけじゃない!」という不満が募り、私の脳裏にこんな言葉がよぎるようになりました。
「日本にいたら、人生を無駄にしてしまう」
そんな折、私は新聞広告で偶然IIPさんのインターン募集を知ります。日本の外に出るための手段が、突如目の前に現れたように感じました。
『E.T.』や『バックトゥザフューチャー』などのハリウッド映画、マイケル・ジャクソンなどのショービズでアメリカに漠然とした憧れを持つ一方、伯父が通訳だったという環境から、英語で書かれた図鑑を眺めるなど言語に親しんでいました。大学では英文学を専攻し、3年生の頃にサンフランシスコで1ヶ月のホームステイを経験。卒業後も趣味として英語の勉強を続けていました。きっと心のどこかで海外に行くことを常に考えていたからだと思いますが、当時は普段あまり読んでいなかった新聞をたまたま開き、IIPさんの広告を発見。「そのチャンスが来た!」と思ったのです。
しかし私が当時携わっていた仕事は、特に専門知識が必要とされないものでした。そこで実際にIIPさんのスタッフに会い、研修が実現可能な業種や職種について相談。曰く「英語力さえあれば、職務経験が無くてもカスタマーサービス分野で研修を受けられる」 – 実際に私は学生時代に接客業を経験していたので、悪くない選択肢だと思いました。
IIPさんに登録してから1年弱、私のインターン先が決定しました。貯金があったので、無給のインターンでも、その期間中については経済的な心配無し。語学力についても、徹底的に話す力を鍛える”英語道場”のようなスクールに通い、辞書を丸暗記するほど読み込み、英語圏の大学院への留学も可能なTOEFL550点をクリアしていたため、不安はありませんでした。
南の島で流した涙
ホノルルから飛行機で約40分の距離にあるカウアイ島。その島内にある”アウトリガー・カウアイ・ビーチリゾート&スパ”で、私は6ヶ月間の研修を受けることになりました。宿泊客向けのツアーやバス、レストランなどの予約を行うゲストサービス(コンシェルジュ)やフロント業務を担当。他にも朝・夜・夜~朝の各シフトで行う業務を習得しました。
言われたことをこなすだけでは終わりません。全部署の長が集まるミーティング、セールスミーティング、マーケティングやオペレーションのミーティングにも積極的に参加。出張にも行かせていただきました。さらに私からも、従業員向けの日本語クラスや、日本から来た宿泊客へのアンケートの実施など企画を提案し、実行。またチェックイン時に部屋のグレードアップを提案するアップセールスでは、無給のインターンでありながら社員を超える成果を上げ、報奨金をいただいたのです。全ては「限られた時間の中で、後悔しないように出来るだけの経験をしよう」という思いからでした。
現地の文化については、食生活を除けば日本よりも私に合っていました。しかし言語に関しては、スピーキングはできてもリスニングに高い壁。島の人たちが話すアクセントの強い英語が聞き取れるようになるまで3ヶ月かかりました。同僚からパーティーに誘われた時、現地の人たちの言っていることが分からず苦痛を感じたことも。さらに米国本土から来たお客さんには、私の日本語アクセントの残る英語が理解されず、悔し涙を何度も流しました。
ホテルへの電話 全部取る!
でも、ある瞬間に吹っ切れたのでしょう。フロントで研修を受けていた時「誰よりも早く、一番に電話を取ってやる!」と決めました。電話に出たところで、相手のおっしゃることが聞き取れるわけではない。それでも電話を取りました。私が何度も聞き返すので、その度に電話の向こうにいる相手から怒られましたが、それを恐れていたら絶対に言語はうまくならない。だから私は勤務時間中、フロントにかかってきた電話を全て取りました。すると、やがて相手の言葉を聞き取れるようになったのです。
ただ、まだ難題がありました。ホテルの各部屋の清掃を行うハウスキーパーとのトランシーバーでのやり取りです。トランシーバーはノイズが多いから、日本語でも時々聞き返しますよね。それが現地アクセントの強い英語や、フィリピンから移民してきたスタッフの話す英語ですから、もっと聞き取れません。そんな格闘を通じて、私の耳が鍛えられました(笑)
大自然から大都会へ
無我夢中で走り続けた6ヶ月は、あっと言う間に過ぎていきました。それでは全く不十分だと感じた私は、IIPさんやインターン先と相談して3ヶ月間延長。その後さらに3ヶ月延ばし、当初の予定から半年も長く経験を積ませていただくことができました。しかもそれはホテル側の要望でもあったため、延長分の研修費を彼らが負担してくれたのです。ただインターン修了後、ホテルが私を雇用することも考えていたそうですが、ビザスポンサーにならないことを方針としていたため、そこでの就職を断念せざるを得なくなりました。
研修前は、修了後は日本に帰国することを考えていました。しかし12ヶ月でもまだ足りないと感じた私は、アメリカでの就職を目指すことに。専門的に経験を積み知識を得たホテル業界なら就労ビザ取得の可能性が高くなると考え、アメリカ国内のホテルに約200通もの履歴書を送付。”日系以外””英語を使う”を職場や職務の条件とし、人材紹介会社を利用しないことを自らに課し、州や都市に関係なく、また滑り止めとして日本のホテルにもアプローチしながら、私を雇ってくれる職場をひたすら探し続けました。
最終的に、ニューヨーク中心部にあるラグジュアリーホテルから唯一内定を獲得。ビザスポンサーになっていただけることになりました。
顔はスマイル 心は号泣
そのホテルのオーナーはニューヨークでも指折りの資産家。しかも国連本部そばという立地もあり、元米大統領や各国の要人、ハリウッド俳優など、SPやシークレットサービスを引き連れた人たちが利用するホテルでした。
私はフロントスタッフとして採用され、その後1年ほどでアシスタントマネージャーに昇格。午後シフトの責任者として、お客様対応やスタッフの管理を担当しました。「この部屋でなければ嫌だ」とおっしゃるお客様を怒らせないよう対応したり、数多く降りかかる苦情を処理したり、ビジネスで消耗したニューヨーカーたちのストレスの捌け口となったり(笑)でも私たちはクールに、穏やかに、嫌な顔一つせず、常に笑顔でいなければならない。きっとニューヨークのホテルで働ける人は、かなりの”俳優”だと思いますよ(笑)
日本人のお客様が多かったわけではなかったものの、ホテル側としては「日本語が話せるスタッフを配置しておきたい」という意図があり、そのポジションで採用されました。しかも私がホテルで唯一の日本人スタッフ。ただ私以外にもアメリカ国籍ではないスタッフがおり、”英語は辞書を丸暗記して学んだ”ことで彼らと意気投合しました(笑)
それでもアメリカにいたいから
アメリカの就労ビザは基本的に3年間有効で、最長6年まで延長可能。私は当ホテルに就職した当時「3年あれば十分だろう」と考えていたため、ビザ更新は考えていませんでした。しかしいざその時期が近づくと、ハワイ時代と同じように「まだここにいたい」と感じるように(笑)
”日本帰国”という選択肢は、もはやありませんでした。アメリカでの生活が長くなり、日本では自分が活躍できる場があるとは思えなかったし、自分が日本で居心地良く暮らすイメージが湧かなかったのです。
特に日本では当時「女性は結婚するまで実家で暮らす」という価値観がまだ残っていたので、早く親元を離れたいという気持ちが強くありました。もしかしたらそれが、私が海外インターンを考えた大きな要因だったのかもしれません。ハワイのインターンが私にとって初めての一人暮らし – 実際はホテルで生活させていただきましたが – の経験であり、それをきっかけに「自立したい」という思いが一層強くなったと思います。それに、親からも米国滞在を続けることに反対は無く、むしろ応援してくれました。それも大きな後押しとなり、自然とアメリカでの生活を続ける決断に至りました。
私はホテルのゼネラルマネージャーに永住権のサポートを相談しました。幸運にも「いいよ」と快諾してもらえたため、会社をスポンサーにした永住権申請を進め、自費で移民弁護士を雇い手続きを行いました。時は9.11の前、移民関連の審査がまだそれほど厳しくなかった頃。申請のタイミングが良く、しかも弁護士からの助言でプロセスを省略できる道を選んだことで、申請から約3年半後の2003年に永住権を取得できました。もし9.11の後に申請していたら、取得まで6~10年待つのも十分あり得たこと。しかも私が、勤務先をスポンサーに永住権を取得した社員第1号。自分の幸運さを噛みしめましたね。
傷だらけで綴る新たなページ
その後も約2年間ホテルに勤務。ハワイでのインターン時代からニューヨークでの社員時代に至るまで、あらゆる経験を積ませてもらい、達成感を覚えていました。
一方、フロントは立っている時間が長く体力的に厳しい職務。肉体的な辛さに加えて、ニューヨークのホテルでは、要望の多いお客さんへの対応を常に迫られる精神的苦痛を味わいました。しかもそれだけに留まりません。マネージャー退社後の17時以降は私がマネージャー代理として、従業員のマネジメントに取り組んでいましたが、中でも年長の労働組合のメンバーは雇用が保証されているからか、勤務態度が良くなかったのです。彼らと仲良くなり過ぎず、嫌われもしない、お互いが敬意を持って接し合う適度な距離感を掴むことに苦心しました。
それらの経験を経て、どこでも通用する人材になれたことを確信した私は、ホテル業界を離れ、新しい世界へと旅立つことを決めました。
ニューヨークのホテルに勤務していた頃、私は管理職としてスタッフの採用や配置を行っていました。その経験から人材関連の仕事に自然と興味が湧き、米系人材コンサルティング企業に入社。クライアント企業の採用計画や人員募集のコンサルティングに携わりました。ホテルやコンサルを通じて”人を見る””人と対峙する”経験を積んだことで、より深く人と接することのできる社内人事業務に興味を持ち、米系IT企業の人事部に転職。現在に至ります。
先述の通り、弊社はニューヨーク(ニューヨーク州)、シリコンバレー(カリフォルニア州)、ダラス(テキサス州)と3州にオフィスがあります。アメリカでは州ごとに法律が異なるため、3つの州の人事関連の法律を学び、人事関連の資格も取得。入社から3年ほど経った頃、さらなる可能性を考えていたときに、コーチングに関する記事を偶然目にし「人事にも役立つかもしれない」と思い、2011年にコーチングの資格を取得しました。
夢を生き続ける
今年でニューヨーク生活は27年目です。ハワイでのインターン期間を加えると、アメリカでの暮らしは28年が経とうとしています。そもそも私の夢は”アメリカで働くこと”で、それを私は20代で叶えてしまった。だから「次に何を目指せばいいのか?」と迷ったこともありました。
でもよく考えれば、私は”I’m still living my dream.”つまり今も自分の夢を”生き続けている”んですよね。ニューヨークに27年半住み、今ではそれが当たり前であるかのように生活していますが、日本に帰るたびに「ニューヨークで長年サバイバルできているってすごいことだよね」と友人たちから言われます。競争の激しいこの街で、自分の力で生き続けていることは、ある意味”夢を叶え続けている”状態なのかもしれません。
金銭的な苦労が全く無かったと言ったら嘘になります。ハワイでのインターンは基本的に無給だったし、ニューヨークでの就職が決まるもビザが下りるまでの半年間は、日本で両親のスネをかじって生活(笑)その後渡ったニューヨークでは、真冬だったにもかかわらずベッドを買うお金が無かったので、新居の床で寝ていました。でもそれらを、私は全然惨めだと思わなかった。むしろ世界一の大都会で自力で生活できていることに、この上ない充実感を覚えていたのです。
その状態から出発した私が、今の場所までたどり着くことができた。これまで私を支えてくれた方々に心から感謝していますし、後悔は全くありません。ただ「これからどうするのか?」という問いには、常に向き合っています。
昔の私は完璧主義で、自ら掲げた高い目標に向かって突き進むことに快感を覚えていました。しかしコーチングに出会ったことで「この生き方、苦しくないか?」と思い始めたのです。誰に決められたわけでもないのに、自分自身で勝手に厳しいルールを課し、それが達成できないと、そんな自分にがっかりする – 20代の頃はそれでもよかったかもしれませんが、ある時から違和感を覚えるようになりました。
今は、頑張ることに疲れてしまっている人たちに向けて「もっと軽やかに、居心地の良い状態で”夢を生きる”ことができる」と、コーチとして伝えています。
そして元インターン生として、出発前のオリエンテーションなどで、海外に発つ人たちに向けて私がお伝えさせていただいてきたことがあります。
怖い=正しい
それは”自分の決断に自信を持つ”ということです。
よく「Aを選んだけど、Bにすればよかったかな?」と後悔する人がいます。でもそれは意味が無いと思います。そもそも”Aを選んだ時の自分”は今よりも経験が少ない状態。もし過去に戻ったとしても、結局同じ選択をする可能性が高いでしょう。だから後悔するのではなく”自分が選んだ道を正解にしていく”というマインドが大切だと思います。
また「怖い」と思うことこそ、やるべきことかもしれません。私にも、自然豊かなハワイから大都会のニューヨークに移ることに不安を感じたことがありました。その経験を私のコーチングの先生に話したところ”You’re on the right path.”(あなたは正しい道を歩んでいる) と言われました。つまり「それを怖いと感じるということは、あなたは進むべき道を歩んでいるということだ」と。怖いから避けるのではなく、むしろ「正しい道を歩んでいる」と思って挑戦してみると、新しい世界が開けるはずです。
海外インターンに興味がある一方、それを少しでも「怖い」と感じるなら、それこそがやるべきことかもしれない。怖くないなら、もしかするとその挑戦は本当に自分に必要なものではないのかもしれません。
私自身、インターンは私の人生やキャリアでの大きなターニングポイントでした。もしインターンに参加していなかったら、日本でくすぶっていたかもしれませんし、今の自分とはまったく違う人生を歩んでいたでしょう。ただそれは、自分から進んで掴み取ったものではなく”導かれたもの”だと思っています。

私は偶然目にした新聞広告でインターンの機会に導かれ、そして偶然私を採用してくれた会社があるという理由でニューヨークに導かれました。肩の力を抜いて、目の前のチャンスを受け入れてみるのも、大切なことかもしれませんね。
齊藤さん関連リンク
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ポッドキャスト「コーチング・ライブ in NY with Kay」:こちら
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