田中カルロスさん(ペルー)

インタビュー&構成:徳橋功先崎将弘
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Carlos Tanaka
シェフ/ラーメン職人/飲食店経営者

 

 

私の店の前に長い行列。それまでラーメン店はゼロだったのに、私が開店してから約30店舗にまで増えました。

 

 

 

 

 

私たちMy Eyes Tokyoがまだ出会っていなかった”あの国出身の人々”シリーズ。今回は、歴史的に日本と深いつながりを築いてきた南米のペルーです。

昨年(2024年)行政書士兼中央アジア・中央ユーラシア食文化研究家の先崎将弘さんにインタビューさせていただいた際、彼が私たちに一風変わったラーメン店を紹介してくれました。その名も”Don Carlos Ramen”。様々な民族のお料理を召し上がってきた先崎さんのご推薦とあって、インタビュー終了後に喜び勇んでお店に入りました。


その辛さが病みつきになる”レッドホットチリ”。

期待通りの旨辛いラーメンを美味しくいただいた後、お店の方々にごあいさつ。気さくで笑いの絶えない奥様のそばに、はにかんだ笑顔が素敵な男性がいました。今回ご紹介するDon Carlos Ramen店主、ペルーご出身の田中カルロスさんです。私たちはカルロスさんに名刺をお渡しし、インタビューを打診。気軽にOKしてくださいました。

そして年を越し、私たちは先崎さんと共にカルロスさんと再会。この店の名前”Don Carlos Ramen”の”Don”は”経験や知識を持った偉い人”という意味とのことですが、カルロスさんのお話をお聞きするうちに、その言葉を店名に冠した理由が分かった気がしました。

とても優しそうなカルロスさんは、実はペルーのラーメン界の”Don”。それまでラーメン店がゼロだったぺルーで大ブームを仕掛けた人だったのです。

※インタビュー@Don Carlos Ramen(板橋区)
※撮影(キャプションの無い写真):先崎将弘さん

 

ラーメンとアンティクーチョはいかが?

当店のメインはラーメンですが、それ以外にペルー料理もご提供しています。開店当時のメニューはラーメンと餃子や唐揚げ、他に春巻きに似たテケーニョや、南米風串焼きのアンティクーチョといったペルー料理が数品あった程度でしたが、お客様の反応が良かったので、私の故郷の料理を少しずつ増やしていきました。

当店の人気メニューは”マチュピチュパンチ”と”レッドホットチリ”。マチュピチュパンチにはキヌアという、ペルーやボリビア、エクアドルで採れる植物の種を盛り付けていますが、こういうラーメンは日本ではほとんど見かけませんね。


マチュピチュパンチ。盛り付けられたキヌアはビタミンやミネラル、タンパク質を豊富に含む”スーパーフード”と呼ばれている。

またレッドホットチリに使われているペルーの唐辛子は、ペルー料理専門の業者さんから入手しています。


レッドホットチリに使われるペルーで最も辛い唐辛子”アヒリモ”。

またペルー料理は、火曜日から日曜日の夜に提供しています。さらに週末はお昼も楽しんでいただけます。そのおかげか、ペルー人も時々 – お客様全体の2%程度ですが – 店に来てくれますね。

 

日本の味は故郷の味

私は日系ペルー人3世です。私の記憶に今も残っているのは、家族が作ってくれた日本の料理。1世の祖母が、私たちによく日本料理を作ってくれたものです。太巻き、お赤飯、お刺身、お餅、お雑煮、お味噌汁・・・祖母の手作り料理の美味しさは今でも忘れられません。

また母もよく日本料理を作ってくれました。それはペルーの素材を使った、味付けも現地風の”日系人の料理”という感じでしたが、日本の味の記憶が私の脳裏に染みつきました。

そんな日系人家族のもとに生まれた私。家庭で日本の文化に触れながら、外では野球に熱中していました。いろんなスポーツができるグラウンドがあり、私はそこでプレーする野球チームのメンバーになりました。千葉県で開催される少年野球の世界大会を目指しましたが、出場できる選手の人数が限られ、私はその枠に入れませんでした。その悔しさで、余計に「日本に行きたい!」という思いが強くなったのです。

こうして私は1998年、日本にやって来ました。

 

自分探しの旅路

来日前、私はペルー国内の大学で会計や経営管理を勉強していました。もともと、卒業後は父の会社で働くつもりでした。父はペルーで、アルパカの毛皮で作った洋服や、地元で作った雑貨およびアクセサリーなどを販売する会社を経営しており、アメリカやヨーロッパ、日本向けに輸出していたのです。日本で言えば東京ビッグサイトのような大きな会場で行う展示会にも出展していました。1980年代から2000年ごろまでは事業がうまくいっていましたが、それ以降はインターネット販売が主流になり、会社の業績が悪化。私自身も父の会社を手伝っていたものの、そこで正社員として勤務することにあまり興味が持てませんでした。

当時私が興味を持っていたのは写真と動画の撮影。そこで私は、日本で働き、貯めたお金でカメラを学ぼうと考え、大学を辞めて旅立ちました。

運が良いことに、大学の先生をしていた私の父のいとこが広島にいました。その伝手で、彼の知り合いが経営していた広島県内の工場でエアコンプレッサーの修理やメンテナンスを1年間経験。でもあまり興味が持てず、おじさんの紹介で栃木県内のプラスチック工場に入り、7年間働きました。日本で働いているうちに友達もでき、しかもお給料も良かったので、そのまま続けることにしました。栃木にいる間、父に地元の会社を取引先としていくつか紹介したこともありましたね。

お金もある程度貯まり、カメラの学校に行こうと思いましたが、言葉の壁がありました。特に漢字が難しく、テキストがほとんど読めなかった。英語の学校を選べば良かったな・・・と後悔している間に、私は運命の人と出会います。それが将来への道を開いたのです。

 

夢の入口に立つ

私は子どもの頃から料理が好きでした。当時所属していたボーイスカウトでパンケーキの作り方を教わったのがきっかけで料理の楽しさを知り、私は12歳の頃から家でパンケーキやピザを作っていました。父のバーベキューを手伝ったこともありましたね。

やがて私は「いつかペルーで日本料理のビジネスをしたい」と思うように。栃木の工場を退社し、私は埼玉県内にある、コンビニのお弁当やおにぎりを作る工場で働き始めます。その頃、後に妻となる女性に出会いました。

彼女の実家がフグ専門の割烹料理店を経営しており、私はそこを手伝うことに。最初は皿洗いから始まり、揚げ物、焼き物、刺身などを学びました。特にフグの調理は、魚をさばくところから学べたので、良い経験になりましたね。他にも鍋やヒレ酒も作らせていただきました。割烹料理は最初はどれも難しかったですが、毎日練習しているうちに作り方を覚えていきました。お店の人たちも優しく教えてくれました。

しかし2008年にリーマン・ショックが発生。そのせいでお店のお客さんが激減しました。私は少し休みを取らせてもらい、ペルーに3ヶ月ほど帰りました。

 

故郷での発見

7〜8年ぶりに帰ったペルー。以前よりも日本料理店が増えており、しかもそのレベルが高くなっていることに驚きました。

ニューヨークに”Nobu”という有名な日本料理店があります。そのオーナーである松久信幸さんの海外での出発点は、実はペルーでした。彼が23歳の頃、日系ペルー人と一緒にペルーで寿司屋を開店したのです。その共同経営者のお孫さんが2008年に”Edo Sushi Bar”を開き、今ではペルー国内に15店舗を持つチェーンに成長。その影響から、ペルーでは握り寿司よりも、カリフォルニアロールや巻き寿司を中心とするNobuスタイルの寿司が人気でしたが、一方でEdo Sushi Barのメニューにはセビーチェやアンティクーチョ、ポヨなどのペルー料理が入っていました。

しかしペルーには、日本にたくさんあるものが全く無いことに気づいたのです。

 

祖国で修業 母国で開業

それはラーメン店。ペルーにはうどんやそば、そうめんのお店はあっても、ラーメンを提供するお店はゼロでした。私自身も日本に来るまでラーメンを食べたことがなく、来日後に初めて食べたときは、麺とスープの両方を一度に食べるのが難しく、スープばかり飲んでいましたね(笑)

そこで私は、ペルーで自分の店を開くことを目標に、ラーメンを学ぶことを決意。日本に戻り、埼玉県内の人気とんこつラーメン店に入りました。そのお店は11席しかなく、お昼も夜も常に満席。私はその店で3年間働き、とんこつスープの作り方などを学びました。学校で料理を学びたいと思いましたが、カメラの時と同じく日本語が壁となり、あきらめました。

修業を終えた2011年、私は再びペルーへ。しばらく滞在するうち「絶対にチャンスがある!」と思いました。その頃アメリカで一風堂や一幻などのラーメンブームが起きたことから、私は「アメリカの後を追う南米できっとラーメンが人気になるだろう」と予想したのです。私は、朝8時から夜6時まで毎日、地元の友人と一緒に物件を探しました。最初は1ヶ月で日本に戻るつもりが、滞在期間を少しずつ延長。6ヶ月まで延ばした頃、私の実家のそば、日本大使館の近くに空き物件があることを新聞で知りました。

一方で妻はホームシックと、この先何年ペルーにいるか分からないことへの不安から、生まれて間もない娘を連れて日本へと帰国 – そんな状況で、私はついに自分の店”Tokio Ramen”を首都リマでオープンしました。

 

ラーメン市場の”開拓者”

しかし、そんな簡単にお客さんは来てくれません。ペルーにラーメン店が無いものの、ラーメンはありました。味の素が作ったインスタントの”Aji-no-men(あじのめん)”です。それを買って自分の家で作ればとても安く済む。そのため私のラーメンは、ペルーでは決して高くないものの、敬遠されてしまったのです。

じっと辛抱するうち、少しずつお客さんが来るように。日本語やスペイン語を学ぶクラス、日本食レストラン、日系スーパーなどが1か所に集まる施設が近くにあり、そこから日系人や日本人が店に来てくれたのです。その後”ペルー新報”という日本語新聞から取材を受け、その記事のおかげで日系人のお客様が増えていきました。開店から半年~8ヶ月ごろまでは、日本にルーツを持つ人たちがお客様全体の80%を占めていました。


*撮影:徳橋功

その後スペイン語の新聞 – 日本の読売新聞にあたる大新聞 – の料理担当カメラマンが取材に来て記事が載り、彼が所属する日系人向けのスペイン語雑誌でも店のことが伝えられました。

*撮影:徳橋功

こうして日系人から他のルーツを持つペルー人にまで知れ渡り、やがて客層が完全に逆転。日系以外の人たちが80%を占めるようになったのです。特に南米特産のキヌアを入れた”トーキョーキヌアパンチ”が日系以外のペルー人に人気でした。もし日本でデートの時に「ラーメンを食べよう」と言ったら相手に怒られると思いますが(笑)ペルーではラーメンは寿司と同じ”日本料理”で、特別な日に食べるものとして認識されていたのです。

店は大通りから3ブロックほど離れた場所にあったにもかかわらず、長い行列ができるように。それを見た人たちが「ラーメンは儲かる!」と考えて、次々に店を開いたのです。今ではリマ市内で約30店にまで増えています。

 

ペルー和食界のDonに

Tokio Ramenでは最初、ラーメンだけを提供していました。今も当店で一番人気の”マチュピチュパンチ” – 当時は”トーキョーキヌアパンチ” – などをメインにしていましたが、家族で食べに来る人たちのために、ペルーで初のカレーライスやカツカレーも提供するように。まさにアメリカンスタイルの和食レストランですね。カレーはとんこつスープで作って大ヒット。その人気ぶりを見て、カレーラーメンも作り、これも当たりました。一方で「お寿司を食べたい」というリクエストもいただきましたが、作るのに時間がかかるため、結局出しませんでした。

2016年に日本に一時帰国した時、たこ焼き器と焼き鳥機を入手。これらもペルーに無かったもので、たこ焼きも焼き鳥も大ヒットしました。やがて店の隣の物件が空き、そこをチャーシューやたれ、メンマを作る工場として活用。その入口で日本のラムネやお菓子、デザート、たこ焼きなどを販売。その売り上げを工場の家賃に充てました。

もちろんラーメンの研究も忘れません。2018年に再び日本に行き、ラーメン博物館などを視察し、新しいメニューを考えました。また焼肉店にヒントを得て焼肉の提供も考えましたが、換気扇を取り付けなければならないので却下。代わりにツナマヨと味噌のおにぎりを販売したら、飛ぶように売れました。

このような繁盛ぶりを見た人たちから「フランチャイズとして店を出したい」というオファーがたくさん来ました。それに応えられるように、すでにフランチャイズの実績がある人に教えてもらいながら、マニュアルと、100ページ以上にも及ぶ契約書を約8カ月かけて用意。そして友人がフランチャイジーとなり、2019年に”Tokio Ramen”2号店をオープンしました。

 

Donでも勝てなかったもの

新宿のような観光スポットに作った、すごくおしゃれな店。カクテルなどアルコールを楽しみ、その締めとしてラーメンを食べるというスタイルでした。1号店と同じくトーキョーキヌアパンチやレッドホットチリ、味噌ラーメンやカレーラーメンを提供しました。また、日本で得た知識や私の経験をペルーで広げるために、ラーメン教室を開きました。

そんな絶好調の私でしたが、やがてピンチが訪れます。まず、1号店で提供していたたこ焼き用のたこが、韓国や日本への輸出に割かれたため品薄になり、値段が2倍に跳ね上がったのです。そこで値段が安定していたエビを代わりに入れたり、チーズとソーセージを具として入れたりしたら大人気となり、難を逃れました。

しかしフランチャイズの2号店の開店から半年経った頃 – パンデミックがやって来たのです。

1号店は長年経営していたため、国から補助金をいただきながら経営を続けることができました。一方で2号店については、オープンから半年しか経っていなかったため税金を収める必要が無い代わりに、補助金が出なかった。そのため家賃を支払うことが難しくなり、悩んでいたところ、大家さんが大幅に家賃を下げてくれました。そこで友人はデリバリーで生き延びようとしましたが、私が閉店を決断しました。

その後も1号店は営業を続けていましたが、最終的に家族と話し合って閉店。2011年に日本に帰った妻と娘は、その1年後にペルーに戻ってきていましたが、ついに一家で揃って日本に帰国しました。ちなみにTokio Ramenの名前は、誰かに勝手に使われないよう特許で保護しています。

 

負け犬では終わらない

帰国した当初、日本でラーメン店を開くことはそれほど考えていませんでした。なぜなら私が日本に一時帰国してラーメン店を視察するたび、その人気が落ちているように感じたからです。でも私は、ペルーで店を閉めたままで終わりたくなかった。日本でもう一度”トーキョーキヌアパンチ”や”レッドホットチリ”で勝負したいと思ったのです。

そこで私は、物件を探しながら埼玉県内のつけ麺チェーン店で働き、日本でウケるラーメンを研究することに。北浦和に新しくオープンする店舗のオープニングスタッフとして働きながら学びました。

一方で自分が住んでいたさいたま市内を中心に物件を探しました。空きが無く悩んでいたところに、知り合いから「こっちに良い場所があるよ」と紹介されました。それがこの物件です。

浮間舟渡という場所は、全く知りませんでした。静かな街ですが、駅前は人通りもそこそこあり、物件が入っているマンションにはたくさん人が住んでいる。「悪くない」と思いました。元々は寿司屋さん、その前は居酒屋さんや焼鳥屋さんを営んでいた物件。周辺にはラーメン店が無いので「チャンスだ!」と思いました。

 

ラーメン+ペルー料理で勝負

こうして2023年9月”Don Carlos Ramen”をオープンしました。

最初はラーメン専門で勝負しようと考えていました。しかし日本にはすでに5万軒以上のラーメン店があり、競争が激しい。しかも浮間舟渡は池袋や赤羽に近い分、住民はそれらの街で食事をします。そこで私は考えました。

私の故郷の料理をメニューに少しずつ加えたのです。ペルー料理店は、池袋にも赤羽にもありません。その上ペルーの料理は今、世界的に注目されています。おととし(2023年)「世界のベストレストラン50」(The World’s 50 Best Restaurants)で第1位に選ばれたお店がペルーにあり、しかもそれが東京に進出しました。また知り合いが経営している原宿のペルー料理店はミシュランガイドに載りました。日本でペルー料理の人気がじわじわと高まっていることを感じます。

一方で”ペルー人が作るラーメン”に興味を持って店にいらっしゃるお客様もいます。リピーターも増えて、少しずつ認知されてきました。しかし私は、ある決断をしました。

2025年3月いっぱいをもって、私はこのお店を閉めます。でも終わりではありません。どこになるか分かりませんが、これからも美味しいペルー料理とラーメンを提供していきたいと思います。

 

いつかは”海のDon”に

将来は海の近くに住みたいですね。そして自宅の1階に店を開く – それが私の夢です。

私が生まれ育ったのは海の近くだから、海が大好き。しかも昔サーフィンに熱中していました。日本や海外で開かれたボディボードの大会にも出場したことがあり、ムラサキスポーツさんがサポートしてくださったこともあります。来日後によく行ったのは茨城や千葉の海でしたが、それ以外にも宮城から沖縄までいろんな海に行きました。

実際にこの店を開く前、知り合いが千葉の館山で営んでいるホテルのスペースを紹介してくれたことがあったのです。しかし館山は、春や夏はお客さんが多くても、秋冬は閑散としてしまうという難点がありました。

でもいつかは、海のそばで店を開きたい。サーフィンした後に気軽に立ち寄り、ロコモコやペルー料理などを楽しめる店を作りたいですね。

 

カルロスさんにとって、東京って何ですか?

大好きな街です。東京は何でもそろっているし、食べ物も美味しいし、治安もいい。世界中の料理が食べられるのも魅力ですね。

 

カルロスさんにとって、日本って何ですか?

住みやすい国です。食べ物も美味しいし、人も優しいですね。

それは他のペルー人にとっても同じかもしれません。日本でのペルー人の人口は減っていますが、それでも日本で家を買う人は増えているように感じます。日本で働きながら、ローンを組んで家を買った人が多いですね。

ペルーと日本、どちらの国にも良さがあります。私は両方の文化を大切にしたいと思っています。

 

My Eyes Tokyo

Interviews with international people featured on our radio show on ChuoFM 84.0 & website. Useful information for everyday life in Tokyo. 外国人にとって役立つ情報の提供&外国人とのインタビュー