栗林央さん
インタビュー&構成:徳橋功
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Hisashi Kuribayashi
国際研修団体 プログラム運営責任者
国際交流は決してきれいな仕事じゃない。それでも参加者から「海外に行って良かった!」と言われると、全てが報われた気がします。
My Eyes Tokyo編集長の徳橋は2006年にオンラインメディアを立ち上げ、日本で活躍する外国籍市民とのインタビューを始めました。その活動の遠因となったのが、彼がかつて経験したアメリカでの企業インターンシップや、その期間に出会った様々な背景を持つ人たちとの交流です。その機会を徳橋にご提供されたのが、東京都内にある国際研修団体”インターナショナル・インターンシップ・プログラムス”(以下IIP)です。
徳橋があるテレビ局でニュース番組制作に従事していた頃、帰路に就く電車の中で、あるものに目が留まりました。著名ジャーナリストの鳥越俊太郎氏の顔が大きく載った広告です。かつてあるプログラムを通じて、アメリカの小さな新聞社で1年間の研修を受けた – そんな鳥越氏のエピソードを目にした瞬間、高校時代から漠然と抱いていた海外への憧れと、報道の現場で走り回るうちに芽生えた「アメリカやイギリスで本場のテレビジャーナリズムを学びたい」という思いが結びつき「自分の夢を叶えるのはここだ!」と確信しました。
ほどなくして徳橋は、その広告で紹介されていたIIPさんの説明会に参加。その約1年半後、徳橋は未知の体験への不安とワクワクを携えてアメリカ・カリフォルニア州フレズノ市に渡り、現地のFOX系テレビ局での1年間の研修に突入しました。
※徳橋のインターン体験記はこちらから
徳橋は帰国後、IIPさんが主催するインターンシップ説明会に参加し、海外での研修を控えた人たちに自らの体験を伝えました。その当時から現在に至るまで約20年にわたり、彼が立ち上げたMy Eyes Tokyoを見守ってくださっていたのが、IIPのプログラム運営責任者である栗林央さんです。
これまでもニューヨークやロサンゼルス、バンクーバーなど海外の都市で活躍する日本人にインタビューさせていただいてきたMy Eyes Tokyo。異国の地に渡り”外国人”として生きる日本人が増えれば、日本での異文化理解はさらに深まるのではないか – そのような期待を込めて海外渡航希望の日本人の支援に本格的に動き出す私たちは、その決意の表れとして、長年お世話になった栗林さんに、海外に挑戦する人たちの支援に賭ける情熱やその源についてお聞きしました。
*インタビュー@IIP本部(東京都品川区)
恐竜の化石発掘も”学び”
私たちがご提供するインターンシップは、一言で表すなら”机の上の勉強以外のことを海外の現場で学ぶこと”。現地企業での職業体験を通じてご自身の仕事でのスキルを高めたり、ガーデニングや料理などをそれぞれの文化の発祥の地で学ぶ”ワーク&カルチャーインターン”、小学校や中学校で日本語や日本の文化を教える”スクールインターン”、現役の教師や教師経験者が参加する”海外教育ブログラム”や、教育を学ぶ学生たちが参加する”国際教育実習プログラム” – これらが私たちがご提供させていただいている主な海外研修です。
参加者の中には学生さんもいますが、30歳前後が中心層で、その約8割が女性です。皆さんがスキルアップや新たな挑戦を求めて参加され、中には休職、あるいは退職までされる人もいます。研修先にそのまま就職する人がいれば、現地で起業する人までいます。一方、企業に籍を置いたまま1~2ヶ月ほど海外での職業体験に参加される方もおり、それは主に企業研修の一環として行われることが多いです。
先ほど挙げた3つのインターンの中では、スクールインターンや海外教育プログラムに参加する人が多く、主に教育に従事する方々です。海外の子どもたちに日本を伝える一方、それ以外の時間に研修先の学校の授業の様子や使用する教材などを見ることができるのが特色で、教育に情熱を注ぐ人たちにとって貴重な学びの場となっています。そのため現役の先生はもちろん、忘れかけていた”教えることを通じて生徒と交流する喜び”を求める元校長先生もご参加くださっています。
日本に常駐する私たちスタッフは、参加をご希望される方々へのオリエンテーション、ご出発前のカウンセリングやビザの申請、現地到着後のサポートを行います。カウンセリングの際には、研修先が求める語学力や経験を伝えます。現地で研修先に入られた後は、文化や習慣の違いから問題が生じる悩みに耳を傾け、皆さんが異国の地で安心して生活できるよう努めています。
1979年に日本から公立高校教師16名がアメリカに招聘されて以来、延べ1万8,000人もの人たちを、欧米諸国を中心に53ヶ国(※2024年12月1日現在)に送り出してきました。その中にはエジプトでの遺跡発掘やモンゴルでの恐竜化石発掘に参加した人、香港で中華料理の修業をした人もいます。実は私自身も、20年以上前にIIPが提供するスクールインターンに参加し、アメリカで1年間滞在しました。その経験を活かしながら、一人ひとりのご経験や語学力に合わせた研修先を探し、ご出発前のアドバイスや、現地に行かれてからのサポートをさせていただいています。
間もなく出発を迎える研修生たちに必要な情報を共有するオリエンテーションを定期的に開催。
東京都渋谷区(2024年12月)
米大統領通訳官の言葉
私は2000年から2001年にかけて、IIPのプログラムを通じてアメリカに赴任しました。場所は中西部ミズーリ州セントルイス。幼稚園が併設された私立の小学校が、私の研修先でした。
スクールインターン参加者の多くは教育現場にいらっしゃる方ですが、当時の私は、山口県にある大学院で東南アジア経済の研究に取り組む学生。それより少し前の大学時代、かつて大統領の通訳官としてアメリカ国務省に勤務していた恩師に出会い「栗林君、アメリカというのはね・・・」とご経験を話してくださいました。一方で世界で活躍する日本人の少なさを憂いておられていた先生に「君も一度は海外に出てみなよ!」と、私は背中を押されました。
私は中学生の頃から、なぜか英語が好きでした。家族が海外に興味があったとか、洋楽や洋画に囲まれていたという環境では無かったにもかかわらずです。そのため英語科がある公立高校に入学。やがて英語を使う仕事に興味を持ち始め、卒業後は大学で国際経済学を専攻しました。国際と名がつくものの、英語からは少し遠ざかっていましたが、先ほどお伝えした恩師との出会いにより海外への興味に火がつき、アメリカ行きを決意しました。
どうすればアメリカに行けるのか – 大学院生の身で大学に留学することに意味を見出せず、しかもお金がかかるもの。語学留学という選択肢もありましたが、ただ英語を学ぶために留学することに面白味を感じられない – 様々なアイデアが浮かんでは却下することを繰り返すうち、ある新聞に掲載されていた広告に書かれていた”スクールインターン”の文字に目が留まりました。その内容を見て、現地の人たちと深く交流する自分を想像し、私は「これだ!」と思いました。
しかし教員の経験が皆無だったため、アメリカの子どもたちに日本のことを教えることへの不安は拭えません。当時のIIPには、主にスクールインターン参加者向けに日本文化を英語で学ぶカリキュラムを用意した”インターンシップ・スタディセンター”という研修機関がありましたが、山口で学ぶ福岡県人の私にとって東京はあまりに遠かった。しかも海外インターンの体験談が聞けるオリエンテーションも東京や大阪のみでの開催だったため、参加が叶わず – 子どもたちに何を教えて良いのか分からず、しかもインターネットを通じて得られる情報が乏しかった当時、私は英語で書かれた日本文化関連の本を片っ端から集めることにしました。
英語力については、高校の英語科で英会話を学んでいたため「何とかなるだろう」と。特にスキルアップを図ることなく、私はアメリカへと渡りました。
”教師経験なし & 英語レベル不十分”の男が取った戦略とは?
インターン先は自分で選べるものではなく、本人の語学力や経験などを様々な受け入れ先とすり合わせた上で決まるもの。ミズーリ州という想定外の場所に、私はいきなり放り込まれました。日本では英語力が平均より上だと自負していた私でしたが、高校卒業以来ネイティブの英語から離れていたため、人々の会話のスピードについていけず、彼らが話している内容がほとんど分からない状態。そのような私が、幼稚園と小学校で各学年1クラスずつ、合計8クラスというこじんまりとした学校で、日本語や日本文化を教えることになりました。
最初の1ヶ月は、さまざまなクラスを見せていただきました。その後、どのクラスで教えるか決めるよう言われ、先生も生徒も好印象だった小学4年生のクラスで日本の文化を教えることに決めました。
それまで教壇に立ったことが無かった私。しかしクラスを見学させていただいたことで、一方的な講義形式は受け入れられないことが予想できました。そこで私は、教えること以外にも実際に生徒が体験できる機会を設けました。そのための教材として役立ったのが、出発前に集めた日本文化に関する本です。それらの中から日本の学校生活や相撲などに関するコラムを選んで生徒たちに音読させたり、私の地元を英語で解説したビデオを見せたりしました。中でも日本の学校で生徒が自分たちで教室を掃除することに、彼らは驚いていましたね。
それら以外にも折り紙を体験させたり、日本の家屋を描かせたり・・・この”体験型”は、生徒を飽きさせないだけでなく、英語で教えたり説明したりする分量を減らせるので大変お勧めです(笑)しかも私は、茶道や武道など自分が触れてこなかったものを、渡航前にあわてて学ぶことはせず、自分が知っていたり出来たりするものだけを生徒たちに教えました。
栗林さんが担当したクラスは日本文化一色に!
米ミズーリ州セントルイス
※写真提供:栗林央さん
「相撲はスポーツじゃない!」
期せずして生徒たちの間に議論が巻き起こったものがあります。それは”相撲”です。日本の国技としての相撲を説明した時、ある生徒が「これはスポーツじゃない!」と声を上げました。その子から見れば、ただ太っている男たちが裸でぶつかり合っているだけ。しかも「その体型を作るために、力士は大量のちゃんこ鍋を食べなければならない」と私が伝えるや否や「それはおかしい!」と生徒たちが一斉に叫びました。
給食室で私が巻き寿司を作って生徒たちに振舞った時も、反応はあまり良くありませんでした。当時は海苔が今ほど人々に知られた食べ物では無かった上に、寿司を口に入れた途端に複数の生徒が「苦しい」と言い出したのです。それは海苔が彼らの喉に貼り付いてしまったから。海苔を外側に巻くような、日本で一般的な形態にせず、海苔を寿司の内側に巻くべきでした。
これらの経験を通じて、私は日米の文化の違いを実感し、新しい視点から日本文化を見直すことができました。日本文化を教える以外にも、クラス担任のアシスタントティーチャーを務めさせていただいたおかげで、生徒の考え方や学校の教育方針などで日々たくさんの発見があり、非常に貴重な時間を過ごさせていただきました。
”スパルタ教育”で伸びた英語力
渡米したばかりの頃、現地の人たちから英語で話しかけられた時の私の思考は「言葉を聞く→日本語に訳して理解→自分が伝えたいことを日本語で考える→それを英語に訳す→口に出す」という過程をたどっていました。しかし日本語で考えることがだんだん無くなり、英語で聞いたことをすぐに英語で理解し、それに対し英語で伝えるという感覚が身についてきたのです。文法がめちゃくちゃだったり、使うボキャブラリーが限られていたりしたものの、以前に比べてコミュニケーションがスムーズになったことを実感しました。それはホームステイ先で受けた”スパルタ教育”の賜物かもしれません。私は1年間の研修期間中に2つの家族にお世話になりましたが、いずれも学校が交渉し承諾をいただいた、生徒の保護者のご家庭です。
1つ目のホームステイ先は、祖父母の世代にドイツからアメリカに渡ってきたという、印刷会社を経営する比較的裕福なご家庭。週末はその会社の社員さんや取引先などが集まるホームパーティーが開かれ、私も「勉強になるからいろんな人と話しなさい」とお招きいただきました。
2つ目のホストファミリーは平均的なご家庭でしたが、ホストマザーは若い時に日本に何度も訪れたことがあったそう。だから私を迎え入れてくれたのかもしれませんね(笑)ちなみにホストマザーのお父さんは、マクドナルドで提供するケチャップを入れる小さいパッケージを作る会社を経営していましたが、その特許を取り忘れてしまったとのこと。この家庭も皆さんがフレンドリーで、居心地が良かったですね。
学校の先生方や職員、ホストファミリーなど私が接した人たちのほとんどが白人でしたが、都市部という立地のためか、私が挨拶をしても無視を決め込む若い女性の先生が1人だけいた以外は、人々から差別心を感じたことはありませんでした。
帰国の間際、校長先生が私に言いました。「あなたの英語の理解度は、この学校に来たばかりの頃は10段階中2段階目くらいだったけど、今は7段階目ぐらいだよ」。確かに研修を開始した頃は、先生が普通に話していることも理解できなかったのに、終わりの頃には、他の先生たちが – おそらく校長先生の悪口を言っていたのでしょう – 私に聞かれないようにこっそり話し合う姿が見られるようになったのです。英語の環境に長くいることで耳が慣れ、やがて文化や歴史など、現地では知っていて当然だと思われていることを学ぶことで、生活に余裕が出たからかもしれません。
「インターン期間が終わってもアメリカに残りたい」という思いが頭をもたげ、その可能性を探るように。印刷会社を経営していた1つ目のホストファミリーに相談すると「ウチで働けば?」と。しかし困難なビザ取得という現実にぶつかり頓挫し、私はやむなく母国に帰ることにしました。
セントルイス郊外にあるホストファミリーの別荘にて
※写真提供:栗林央さん
国際交流の仕事は摩擦だらけ
2001年に帰国後、私の出身地である福岡市の国際交流協会に就職。在籍期間中、当時福岡でも開かれるようになったインターンシップの説明会に体験者として招かれ、その時に出会ったIIPのスタッフさんと仲良くなりました。やがてその人から誘われる形で2002年にIIPに入社し、東京で新たなスタートを切ることに。説明会や講座の企画など、渡航前の参加者のケアを行う部署に配属され、同じように不安を抱えていた私自身の経験がその仕事に活かされていることを感じました。
ただ一方で、インターンのプログラムを利用する側と提供する側では、見える景色が全く違うことも感じました。そのギャップを埋めるべく、インターン参加者時代には知らなくても問題が無かった各国のビザや教育などの制度を学びました。
国際交流事業というと聞こえは良いですが、泥臭い仕事もあるもの。特に海外との折衝です。例えば私たちがインターン参加者の受け入れ先に「〇月〇日までに書類が欲しい」と頼んでも、受け入れ先は「そんな急がなくても、渡航直前に参加者に渡せば大丈夫」と考えていることがよくあります。一方で参加者から「いつ、私の受け入れ先が決まるのですか?」と聞かれる – もはや日常茶飯事です。
また受け入れ先である学校から、渡航直前に校長先生にご病気が見つかったために受け入れを白紙に戻されたり、また滞在先のホストファミリーの離婚により滞在を断られたりするなど、予想外の出来事が起きます。こうした場合、急いで別の研修先や滞在先を探さなければならず、それらが見つかるまで参加者の渡航を引き延ばしたこともありました。また受け入れ先の期待値と参加者の実際の語学力や経験が一致せずクレームを入れられたり、参加者がホストファミリーと反りが合わずに滞在先を変えることになったりした場合も、私たちは懸命に対応させていただいています。
参加者と受け入れ先の間で板挟みになる辛い場面も少なくないですが、かつての自分と同じような人たちをサポートすることに、私はやりがいを感じています。「私がさせていただいた経験を、少しでも多くの人たちにしてほしい」という思いで日々の仕事に取り組むうち、この20年間で約1,000人の方々のケアをさせていただくに至りました。ご帰国後に「参加して良かった!」とおっしゃる人が多く、それが何よりの喜びですね。一方、これから渡航する人たちの中には「こんなチャンスを待っていました!」と仰る方もいます。近年はメディア、特に紙媒体への広告の出稿を控えているものの、それでも自分のやりたいことをワード検索して私たちのプログラムにたどり着き、実際にご参加されます。皆さんが非常に明確な目的意識をお持ちであることを感じますね。
心地良い日常を飛び出し 世界と触れ合おう
今後も引き続き、海外に出て視野を広げようとする人たちへのサポートを続けてまいります。日本は他の先進諸国に比べて国力が低下していると感じますし、かつて私の恩師が嘆いていた”国際的に通用する日本の人材が不足している”という状況は、今も変わっていないと思います。海外で経験を積んだ人たちが帰国し、日本の発展に貢献されるとしたら、それは送り出す私たちにとっても嬉しいことです。
海外に出ることにはリスクもありますが、それを乗り越えることで得られるものもきっと多いでしょう。今は世界の人たちとのコミュニケーションが求められる時代です。その状況に対応するために、またこれからの日本を盛り上げていくために、たくさんの人たちに海外での経験を積んでいただけけるよう働きかけていきたい。私が大好きな日本が落ちていく姿を見たくはないですから。
超円安の今でも、現地関係者などのご協力により、経済的な障壁をできるだけ低く保っています。それが奏功し、多くの方々に私たちのプログラムにご参加いただいています。日本から一歩外に行くことに対して、特に言語面での不安を感じるかもしれませんが、「行きたい!」という気持ちさえあればそれを乗り越えられると思いますし、その分得られるものは必ずあると確信しています。
”コンフォートゾーン”を飛び出す勇気と経験が、皆さんを成長に導くと信じています!
栗林さん関連リンク
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