先崎将弘さん
インタビュー&構成:徳橋功
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Masahiro Senzaki
行政書士/中央アジア・中央ユーラシア食文化研究家
人々に”国境を越えた視点”を提供し、あらゆる”境目”を無くす – それが私の使命です。
皆さんは”行政書士”という人たちをご存知でしょうか?一言で言えば”各種役所に提出する書類の作成代行人”ですが、その書類の種類は約1万に及ぶと言われています。中でもMy Eyes Tokyoにとって縁深いのは、出入国在留管理局(入管)に提出する在留資格取得および更新に関する書類。この作成にあたり、入管業務に詳しい行政書士が、外国人本人、またはその外国人を雇用する企業や団体に代わって書類を作成したり、作成へのアドバイスを行ったりしています。今回ご紹介する方も、その1人です。
先崎将弘さん。東京都板橋区を拠点としながら、あらゆる地域で活動する人たちを支援する行政書士です。私たちが先崎さんに初めて出会ったのは、コロナウィルスが世界中を襲う前。中東欧の鉄道事情に詳しいライターの新田浩之さんと共催したイベントでした。当時は先崎さんのお仕事を存じ上げず、彼のFacebookに日々アップされる中央アジア地域のお料理の写真を拝見して「この方は何者なのだ?」と(笑)そんな先崎さんがやがて個人事業主として独立し、さらに行政書士になられたことを知ります。海外文化に精通する先崎さんにふさわしい進路だと感じ、ささやかなお祝いの気持ちを込めて、このたびインタビューさせていただくことにしました。
大変物腰柔らかく、私たちが発する愚問にも丁寧にお答えくださった先崎さん。しかし日本国内における”分断”への憂いや、その問題に真正面から取り組む強い決意が、穏やかに語られる言葉ひとつひとつに込められていました。
*インタビュー@せんざき行政書士事務所(東京都板橋区)
”ビザ”と”食”で外国人の暮らしを支援
現在私は、行政書士として主に外国籍の方々のビザ申請支援や開業支援に力を入れています。今年(2024年)2月に開業し、早くもその3ヶ月後には、私が所属する行政書士会の支部の役員に抜擢されるという光栄に浴しましたが、それでも新米であることに変わりはありません。今も修行の日々を送っています。
行政書士として独立した後、その業務対象の幅広さにあらためて驚きました。外国人のビザ申請や法人設立支援、さらに遺産相続手続きなど多岐にわたります。それらの中でも私が主に取り扱う案件はビザに関するご相談であり、中でもキルギスやカザフスタン、ウズベキスタンなど中央アジア諸国ご出身の方々から多くいただきます。
ご相談内容で最も多いのは日本の会社での就労についてですが、他にも会社設立や留学、結婚、帰化などに必要な在留資格の取得といった、海外から来た人たちが日本で生きていくために必要な手続き全般を扱っています。しかも私は、出入国管理局の”申請取次行政書士”の資格を持っています。つまり単なる書類作成では終わらず、私自身が申請者と面談をし、ご希望の在留資格が取得可能かチェックすることができるのです。さらにご本人に代わって私が入管へ書類を持参し、窓口で申請できるため、彼らの時間や労力の節約にもつながります。この申請取次行政書士の資格の取得は、私が行政書士としての活動を始める際に最初に取り組んだことでした。
行政書士の資格は国家資格であり、合格率が約10%と言われるほどの難関。しかし私自身は約30年間、東京都庁で公務員として働いてきたため、その経験をもって資格を取得できました。他の人たちからは「甘いルートだね」と言われることもありましたが(笑)行政書士の仕事は役所向けの書類作成や申請業務が中心で、彼らの視点を踏まえた、いわゆる”勘所”を押さえた書類作成ができるという点で、私の経験が大いに活かされていると思います。
一方で私は、中央アジアの食文化の研究および紹介を10年以上続けており、その活動のルーツは少年時代にまでさかのぼります。都庁には国際関連部署への異動の希望を伝えてきましたが叶わず、プライベートの時間をその活動に充ててきました。この経験を生かすべく、昨年(2023年)8月に都庁を退職し、その翌月に中央アジア食文化普及を主な事業とする個人事業主として独立。以来”中央アジア・中央ユーラシア食文化研究家”としても活動を続けています。
都庁での経験を生かせ、しかも私が長年興味や研究の対象とした国々から日本に来た人たちに支援の手を差し伸べることができる – 安定を捨てたことで“天職”に出会えた、その喜びを噛みしめています。
先崎さんの事務所の書棚。行政書士業務や法律にまつわる書籍と共に、中央アジア諸国のひとつであるウズベキスタン、さらにはブラジルに関する本も。
4キロ先の”ソ連”
私の中央アジアに対する興味の原点は、高校時代です。高校1年生の時、北海道の根室にある納沙布岬を友人と訪れたことが大きなきっかけでした。聞けば岬からわずか4キロの距離に”貝殻島”という島があるとのこと。それは日本ではなく北方領土、つまり当時のソ連領です。その時は残念ながら霧のために見えませんでしたが「日本からわずか数キロの場所に外国がある」という事実に衝撃を受けました。
もともと地理が好きだった私は、その出来事を機にトレーシングペーパーでソ連の地図を描き始め、やがて何も見なくても、領内を流れる河川まで描けるまでに(笑)そんな”ソ連オタク”と化した私は、ロシア文化を学ぶべく大学に入学しました。
大学では文学部の国際文化学科でロシア文化を専攻。ロシア語も学んでいましたが、ロシアよりも旧ソ連国内にあった様々なエスニックエリア、中でもウズベキスタンやカザフスタンなどの中央アジア地域に関心が向き始めました。当時はソ連崩壊につながるペレストロイカの真っ只中で、1986年にカザフスタン(当時はカザフ・ソビエト社会主義共和国)で発生した暴動や、1988年から1994年にかけてアルメニアとアゼルバイジャンとの間で発生したナゴルノ・カラバフ戦争など、民族同士の衝突が国内の至るところで起きていました。「なぜ対立が起きるのか」「この地域の背景には何があるのか」という疑問を抱き、その震源地の一つである中央アジアに関心を抱きました。
大学卒業後、ウズベキスタンを訪問。ついに中央アジアの土を踏みました。その前にすでに訪れていたインドやパキスタンとの地理的な近さに驚き、その意外性からさらにこの地域への関心を深めました。その後、大学時代の恩師の勧めで”ユーラシア研究所”に参加。大学時代の研究を続けながら、学者や専門家では無いにもかかわらず書籍を出版させていただく機会まで得ることができたのです。
限られた命を燃やしたい
2015年の夏のある日、私はひどい頭痛に襲われました。検査を受けると、脳の血管に裂け目 – そこに血液が溜まって瘤となり、くも膜下出血寸前の状況だったのです。その瘤が何かの拍子で破裂したら死・・・1年先の未来すらも描けない状況で、私は考えました。「人間、いつ死ぬか本当に分からない。それなら我慢して好きではない仕事を続けてもしょうがないのではないか」と。
生き方について真剣に考えるようになった私は、その後中央アジア関連イベントなどで、役所や大手企業など安定した職場に満足しない人たちに出会います。「今の職場を辞めちゃおうかな」「それもいいね」などと笑い合っているうちに、彼らの一部は本当に退職してしまった。定年までまだ時間があるのに、それも厭わず辞めた彼らに先を越された思いが募り、口をついて出た言葉が「ズルい!」(笑)。しかし冷静に彼らの生き様を見て「余力があるうちに新しい道に進むのは悪くないのではないか?」と思うようになりました。死ぬまで、とは言わないまでも、自分のやりたいことを、続けられる限り続けて生きていきたい・・・そう思い立ったのです。
一方、籍を置いていたユーラシア研究所での研究テーマとして、私は旅や鉄道に興味を持ちました。しかしいずれも競合が多く、新参者が入り込むのは難しい分野。そこで”食文化”に注目し、地域や人々の生活を伝える切り口としての可能性を見出した私は、現地を訪れて羊をさばくところから自分の目で見て記録。専門家による査読が行われ、厳しいご指摘を受けて修正を重ね『美味しい中央アジア:食と歴史の旅』や『食の宝庫キルギス』を出版しました。この経験を通じて、私の研究は趣味の域を超え、専門的なレベルに到達できたのではないかと感じています。
2019年に出版した『食の宝庫キルギス』。詳しくは画像をクリック!
家系に国家公務員が多いという背景から公務員の道を選び、鈴木俊一知事時代に東京都庁に入都。しかし「定年まで真面目に仕事をする」という価値観が強く、他の選択肢を考える余地がほとんど無い環境で、本業と並行して取材や執筆活動に従事し、いろいろな人々と出会う中で視野を広げていった私は、その価値観に違和感を覚えるようになったのです。私自身が「50歳でセミリタイアし、その後は自分の好きな人生を歩みたい」という思いを若い頃から持っていたこともその要因だと思います。
さらに不景気による人手不足に端を発する60歳から65歳への定年延長、仕事量が減らずに給料だけカットされるという状況が日々のニュースで報じられるように。身も心も削りながら働いて定年退職を迎えたところで、65歳で新しいことを始めるのは非常に難しいであろうことは、容易に想像できました。
それから約10年。息子の学費の支払いの目途が立ち、また退職金で住宅ローンを完済できる見通しが立ったため、辞職を現実的に検討する余地が生まれました。公務員を辞めて新しい道を選ぶのは、私にとって大きな決断であり、博打のような選択でもありました。私の家系の多くが定年まで公務員を続けていた中で、私はエネルギーが残っているうちに新しい挑戦をしたいという思いから退職を決意。2023年8月31日、私は約30年勤めた都庁を去りました。
行政書士業は人生の集大成
翌9月1日、私は”office MAKSAT(オフィス マクサット)” を開業。この”MAKSAT”という名前は、私がキルギスの友人から名付けられたキルギス名から取っています。Maksatには”目的”といった意味があり、現地では男の子につけられる名前です。
個人事業主として独立後に最初に取り組んだのは、料理教室です。それまでは食文化に関する執筆や講演といった活動を行っていた一方、料理を教えた経験はありませんでした。しかしコロナ禍により現地に行けなくなったことを機に、私は中央アジアの料理の作り方を学ぶようになりました。現地の人たちが発信するYouTube動画を参考にしながら、実際に自分で作るうちに、中央アジア料理を再現できるまでに。その画像をSNSなどで発信すると「食べてみたい」「ぜひ料理教室を開いてほしい」という依頼が来るようになったのです。
先崎さんが開いた料理教室その教室で作られたお料理の数々。とっても美味しそう!
※写真提供:Office Banat El Nile
最近では、中央アジアの少数民族に注目しています。中国系ムスリムのドゥンガン人、ドイツ系や朝鮮系、クルド人などの少数民族が、さまざまな理由で中央アジアに移住してきた後、現地でどのように暮らし、どのような教育を受け、何を食べてきたのかを現在調べています。その活動はまさに中央アジアでの多文化共生の調査そのものですし、その実態は日本の状況に見事に一致しています。
丸善出版からの依頼を受け、現地の食文化について執筆した『中央ユーラシア文化事典』長年の研究成果を収めた書籍と共に
これらの活動はとても楽しく、充実した時を過ごしていましたが、収入への不安は依然ありました。実は私は、都庁を退職するにあたり事業の柱をもうひとつ据えることを考えていました。さまざまな選択肢を調べるうちに、公務員の経験を生かせる、役所への提出書類の作成やそれに伴う相談に応じる行政書士業が、自分には最も合っているように思いました。
病院や美術館、学校での契約や法人許認可業務、歴史的建造物保全への補助金業務、私立幼稚園などの学校法人の設立認可業務など幅広く従事してきた私の職務経験をまとめ、古巣である都庁に郵送で提出。都庁の印鑑が押印された職務経歴書が行政書士会による審査を通過し、登録手続きを経て、2023年1月に晴れて行政書士となりました。
公務員時代から取り組んでいた中央アジア文化の研究および普及活動も、行政書士の仕事に結びつきました。中央アジアご出身の人たちの在留資格取得・更新や起業支援、日本人との配偶者としてのビザ手続きなどのご相談を、少なからずいただくようになったのです。
目の前の人に手を差し伸べる
一人ひとりに合った解決策を見つけ、ビザの変更や取得をサポートする役割を担う行政書士は、あたかも診察して処方箋を出す”街のお医者さん”に近い存在だと思います。
例えば”家族滞在”という在留資格を持ち、それにより週28時間しか働けない外国人がいるとします。その人が介護職への就労を希望する場合、資格取得や就職先の確保を勧めるなどして、就労ビザへの切り替えに至るまでサポートします。
またあるケースでは、外国籍のご夫婦の間に生まれたお子さんが、未就学児であるため同年代の子どもと接する機会が少なく、保育園にも通えていないことで、日本語の習得に遅れが見られました。このご家庭に対しては、私の家族ぐるみでお住まいの地域にある幼稚園の費用や、周囲の育児施設を調べ、入園手続きの支援を行いました。
在留資格の申請者は、膨大な書類の作成に追われることもあります。ある案件では、経営・管理ビザ申請のために約100枚もの添付書類を提出しました。私たち行政書士は、相談者の想いや希望が詰まった書類を大切に扱い、可能な限り最善を尽くしますが、それでもわずかなミスや不備で申請が不許可とされることがあります。
また将来的には、外国人家族からの相続手続きの相談も増えてくるでしょう。長く日本に住めば、やがて日本で生まれ育った人たちと同じような問題に直面します。しかし日本で外国人人口が増える一方、対応できる行政書士の数が足りていないのが実状です。
日本人と外国人の分断を無くすために
外国人へのヘイトスピーチについてのニュースを日々耳にします。しかし一方で、技能実習生など外国人労働者が農業に従事してくれているおかげで、都市に出荷する野菜の収穫から梱包、出荷までなされているという現実も目にします。コンビニも留学生を中心とする外国人労働者により支えられているし、コンビニで販売されているお弁当を作っているのも、その多くが外国人労働者です。そのような状況にもかかわらず、不法滞在やオーバーステイといった問題を抱える外国人と、正式な在留資格を持つ外国人を一括りにし、排斥しようとする意見には違和感を覚えます。外国人の存在が日本社会を支えている現状を正しく理解し、建設的な議論を進めることが必要だと思います。
また都庁時代、都職員として都内の中学校や高校の事務室に勤務し、予算管理や契約業務を担当していた時、学校に在籍していた外国籍の子どもたちの実態を見ました。彼らの親御さんは、学校からの通知が理解できず、そのために補助金に関する制度を知らぬまま給食費を滞納するケースがあったのです。中学は義務教育なので、その一環として給食が提供されますが、給食費の未納が続けば給食提供が難しくなります。さらに宗教上の理由で給食が食べられない子どももおり、日本の給食制度が宗教的な配慮に十分に対応できていないという課題も感じました。ハラル対応の食事を用意するには厨房設備や運営方法の見直しが必要ですが、現場では難しいのが現実です。
これらの経験を通じて、外国籍の人たちへの支援や異文化理解の重要性を再認識しました。しかし一方で、外国人コミュニティが日本社会と分断されている現実があります。例えば地域のモスクで、金曜の礼拝の日に子どもたちを見かけます。彼らは「今日は学校が休みなんだ」と言いますが、そもそも日本で義務教育を受けていない可能性があります。移民1世である親が「子どもは日本の学校になんか通わせなくて良い」と思っているのかもしれません。このような風潮が広がると、日本のメインストリームの人たちと隔絶された独自の外国人社会が生まれる恐れがあります。
多文化共生の実現には、日本人が外国人を理解する努力と同時に、外国人も日本社会を理解する努力が必要です。私は行政書士として、補助金や支援制度の情報を正確に伝え、彼らが持つ誤った情報を正すことで、外国人が適切な支援を受けられるよう努めています。日本のメインストリームと外国人コミュニティとの分断が解消され、お互いが共存する社会を築くために欠かせない取り組みだと信じて、日々の仕事に取り組んでいます。
文化や人のつながりは国境を越える
私の目標は二つあります。一つは、中央アジアを中心とした食文化の研究と普及をライフワークとして続けること。もう一つは、外国人との多文化共生を支援することです。飲食店を日本で開きたい外国人を、在留資格の手続きとフードコンサルティング、さらにはその経営者のご家族の就学に向けたサポートなど”食を出発点とした多文化共生の実現”に尽力するのが理想ですね。
料理の持つ普遍的な魅力を活かし、人々の間にある壁を越えた理解と繋がりを生み出す – それが私の目指す理想であり、食文化を中心とした多文化共生の実現に向けた活動をこれからも続けていきます。現代は”分断の時代”とも言われますが、料理や文化を通じて国境を超えた共通点を見つけることが重要です。たとえば、中央アジアとリトアニアは現在では直接的な繋がりが薄く見えますが、旧ソ連時代には同じ文化圏に属し、ウクライナ発祥と言われるボルシチのような料理を共有していました。このような文化の流れや本質を捉える視点を提供するのは、中央アジア出身でも、それ以外の旧ソ連諸国出身でもない、日本人の私だからこそなし得ることだと思います。
国境は後から引かれたものであり、料理や文化はそれを超えて広がっていきます。今年、イランで中央アジア国境近くを訪れた際にも、双方の地域の料理の共通点を実感しました。中央アジアでもタジキスタンとウズベキスタンの料理に大きな違いはなく、地域全体が後に引かれた国境線を超えた文化的繋がりを持っていることがわかります。
私は食を通じて人々の繋がりを再発見し、国境にとらわれずに文化の流れや本質を見ることを人々に提案させていただきたい。国境を現実として認識しながらも、それを超えた視点を持つことで、多様な文化を理解し、人と人を繋ぐ架け橋を築きたいと考えています。
一方で私が行政書士として携わる入管業務では国境を意識せざるを得ませんが、外国人と日本人が日本国内で共に仲良く暮らせる環境を作ることが目標です。在留資格を取得すれば外国人も日本人とほとんど同じ権利が得られる一方、納税などの義務も生じます。行政書士としても”国内での国境を無くす”ことが私の使命だと感じています。
なせばなる多文化共生
世界中で外国人排斥の声が上がる中、多文化共生を実現するためには、国や文化の違いを越えて共通点を見つけ、それらを共有しようとする姿勢が不可欠だと思います。その好例が、マレーシアです。国内で問題を抱えているかも知れませんが、現地では多様な宗教や文化を持つ人々が、お互いを尊重しながら共存しています。
また旧ソ連でも、問題はあったものの、民族や宗教を超えた”ソ連人”として人々が共に働き生活する姿が見られました。ある工場ではロシア人やウクライナ人、キルギス人などが一緒に働き、お昼になったらトレーを並べてご飯を食べていました。しかも宗教が弾圧されていた状況にもかかわらず、イスラム教の祝日やクリスマスを、宗教を越えて皆が一緒になって祝っていたそうです。
私が理想とするのは、異なる文化や宗教を持つ人々がお互いを尊重し、協力しながら共に生きる社会。国境や文化の違いを越え、お互いが理解し合うことで、より良い未来を築けると信じています。
先崎さん関連リンク
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