イグデ ウィリヤンタさん(インドネシア)

インタビュー&構成:徳橋功
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Igede Wiriyanta
会社員/エンターテイナー

ルールを大切にする日本が大好き。それでも仲間と同じ言葉でしゃべり、同じ文化を共有する時間は、日本で生活するためにとても大事なのです。

 

My Eyes Tokyo(以下”MET”)史上初、バリ島ご出身の方とのロングインタビューをお送りします。MET編集長の徳橋が2年連続で実行委員長を務めた「多文化おもてなしフェスティバル」の実行委員のお一人で、はにかんだような笑顔がとても魅力的なイグデ ウィリヤンタさん、通称”グデさん”です。

フェスティバルに向けて、様々な背景を持つ人たちが毎月集まって話し合いを行いますが、グデさんは今年(2024年)6月のミーティングに初参加。それ以降もグデさんが所属するグループ”バリ島ブリバグス”(※”ブリバグス”はバリ語で”イケメン”の意)を代表して、ディスカッションの輪に加わりました。

実行委員長の徳橋から実行委員に対し、全員の共通語である日本語でメッセージを送りますが、グデさんはいつも非常に丁寧にお返事をされました。時には、決してご自身のミスではないにもかかわらず、深くお詫びをされたことがあるほど。そんな誠実味あふれるグデさんのルーツを探りました。

*インタビュー@渋谷

 

人生を変えた”誘い”

私はエンジニアとして金属加工の仕事をしています。アルミニウムや鉄などの加工で、それにより生まれた部品はコンピュータや車、アーチェリーなどに使われます。約20年、同じ会社で働いていますね。

一方で”バリ島ブリバグス”という舞踊グループに所属し、バリ島の伝統的な楽器であるケチェックリンディックを演奏しながら、主に東京でバリ島の文化を伝える活動をしています。コロナ禍の頃に趣味で始めましたが、多文化おもてなしフェスティバルなどのイベントに出演するまでになり、たくさんの人たちとつながることができました。


伝統楽器ケチェックを演奏するグデさん(写真左)
※写真提供:Global Peace Foundation Japan

私が日本に来たのは今から24年前、2000年です。私はサッカーを見るのが好きで、来日前も中田英寿さんの名前を知っていました。他にもインドネシアで放送されていた『一休さん』などのアニメ、『おしん』や『東京ラブストーリー』などのドラマを見ていました。でも実際に日本に行くことは全く考えていませんでした。

私は地元の高校を卒業後、バリ島のデンパサールにあるイ・グスティ・ングラ・ライ国際空港で働き始めました。電気技師になるために大学への進学を考えていた頃、親戚のおじさんから「空港で仕事してみないか?今、人を探しているんだ」と誘われたのがきっかけです。彼もその空港で働いていたので、興味を持ちました。

もしあの時、おじさんの誘いを断っていたら、全く違う人生を歩んでいたと思います。日本にも来ることも無く、インドネシア国内で人生を送っていたでしょうね。

 

灯された恋の炎

私が空港で担当していたのは、税金の窓口業務です。今はもう廃止されていますが、1990年代末頃の空港では、飛行機に乗る人は空港税を支払う必要があったのです。チケットとは別に、カウンターで税金を支払うシステムでした。空港税を支払い、その領収書をチェックインカウンターに提示して、ようやく飛行機に乗れるという仕組みです。今ではシステムが変わって、空港税がチケット代に含まれる形になりましたが、当時は別々に扱うので、結構手間がかかりました。時々その支払いの長い列ができ、対応に時間がかかることもありましたね。

私はその仕事を4年間続けました。その間、私が20歳の頃、日本に行くきっかけとなる人との出会いがあったのです。

ある日、仕事の合間の休憩中に、偶然ある日本人女性と出会いました。その人は空港内でインドネシア紅茶のお店を探していました。その場所について彼女が私にインドネシア語で聞いてきた時、私が教えながら、少し会話をしました。その時に一緒に写真を撮ったり、連絡先を交換したりしました。当時はスマートフォンがまだ無かったので、連絡はいつもインターネットカフェのパソコンを使うか、電話ボックスから国際電話をして取りました。

こうして彼女とのお付き合いが始まりました。インドネシアと日本との遠距離恋愛でしたが、その間も彼女が時々インドネシアに来てくれましたね。

そのような関係が2年ほど続いた頃、私も日本に行きたいと思うようになり、それから2年経って彼女と結婚。旅行でも来たことが無かった日本に、いきなり住むことを決めました。最初は5年間だけ日本に住むつもりでしたが、日本に来たら楽しくて、結局今に至ります(笑)しかも住まいは、ずっと東京の杉並区内です。

 

災いの時に必ず現れた仲間

日本に来た頃、私は全く日本語が話せませんでした。人々の話すスピードが速くて「これは絶対にマスターできない」と思いました。でも日本で生きていくことを決めた私は、新宿の住友ビルにある日本語学校で約1年半勉強。当時はその近くのアイランドタワーにエスニックレストランがあり、そこで働きながら学校に通っていたのです。その後も、仕事を通じて日本語を学びました。職場にはインドネシア出身の人たちもいましたが、日本人と一緒に仕事をしていたので日本語を話す機会が多く、それが良い練習になりましたね。

言葉を話せるようになった2004年、金属加工会社に入社。その後2008年に起きたリーマン・ショックにより残業が無くなったため、私は当時大崎にあったインドネシアレストランで夜だけバイトすることに。ちょうど子どもが生まれたばかりの頃でした。

週2~3回、19時から21時までの勤務で、約1年働きました。その職場で私は”バリ島ブリバグス”のリーダーであるコマン スジャヤさんという方に出会います。

私はもともと、バリ島のダンスや伝統音楽の演奏などを見たり聴いたりするのが好きでした。彼らの活動をFacebookで見て「すごいな~」と思いました。しかしプライベートの時間は家族といろんな場所に出かけていたので、自分がそこに参加することは全く考えていませんでした。

その後コロナが世界中に広がり、イベントなどが無くなったので、私は家で過ごす時間が増えました。何もやることが無く困っていた頃、コマンさんから連絡がありました。

「練習場に遊びに来なよ!見るだけでもいいから」。彼らは偶然にも私の自宅に近い杉並区内の体育館を借りて練習していました。それを眺めるうちに「これなら自分にもできそうだな」と思い、彼らに交じって練習するようになりました。

実際にやってみると、とても楽しかった。メンバーも優しい人ばかりだから、グループの雰囲気がとても良い。演奏や練習を通じて彼らと笑い合い、盛り上がる時間が心地良く、気づけばのめり込んでいました。

彼らとの活動は、私にとって”バリ”を感じられる大切な機会。お互いにバリ語でしゃべり合い、自分たちの文化や伝統を、故郷から遠く離れた日本で共有する時間がとても貴重なのです。やはり、楽しいから続けられるんですよね。活動を通じて、日本にいながら自分の文化に触れたり、自分たちの文化を日本の方に紹介して、それを喜んでもらえたら、とてもやりがいを感じます。

おかげさまで日本での生活が、より一層充実したものになりました。私を素晴らしい仲間に出会わせてくれたコマンさんには、心から感謝したいですね。


「多文化おもてなしフェスティバル2024」でバリ島の舞踊を披露する”バリ島ブリバグス”の皆さん。グデさん(写真左端)含むメンバーたちが、リーダーのコマン スジャヤさん(写真中)の踊りを歌で盛り上げる。
2024年11月17日(東京都中央区)
※写真提供:Global Peace Foundation Japan

 

故郷が好き 日本が好き

今ではもう日本での生活に慣れて、普段の食事も日本食の方が多いくらい。人々がきちんとルールを守ることに対して、慣れない外国人が少なくないかもしれませんが、私はそれにすら心地良さを感じます。一方で、これは日本だけで起きていることではないと思いますが、経済的な負担がストレスになっています。

それを癒してくれるのがバリ島ブリバグスでの活動です。仲間と一緒に音楽を演奏したり、練習を楽しんだりすることで、嫌なことを忘れられる。この活動に参加し始めてから、気持ちがとても楽になりました。他にもアーチェリーや、インドネシアで盛んなバドミントンでストレスを発散しながら、日本での生活を楽しんでいます。

でも時々、ホームシックになることがあります。故郷に帰ってしばらく滞在し、それから日本に帰国した後、昼寝をして目が覚めたら、まだバリにいるような感覚になることも。夢ではなく、本当にふと「ここはバリかも」と思ってしまうのです。

バリに帰省すると、最初の1週間くらいは「やっぱり故郷がいいな」と思います。でも、仕事の都合などで短期間しか帰れないので、またすぐ日本に戻ることになります。それでも「日本に来なければよかった」と思ったことは一度もありません。

 

夢の2拠点生活

これからもバリ島ブリバグスでの活動は続けていきたいし、日々を楽しみながら生活していきたい。将来的には、子どもたちが独立して自分の力で生活できるようになったら、妻と一緒にバリ島に帰ることを考えています。彼女も「リタイア後はバリでのんびり暮らすのもいいね」と言っています。バリで年金生活をしながら、好きな仕事をして暮らすイメージです。

ただ、バリに長く住むとまた日本が恋しくなるかもしれません。特に、先ほど言った、ルールを守る人たちとの生活ですね。人が並ぶ時、日本ではきちんと順番を守りますが、バリ島では後ろから人が割り込んで、喧嘩になることがよくありますから(笑)

だから一番理想的なのは、日本とバリ島を行き来するような生活。実際バリに帰省すると、最初は「ああ、やっぱり故郷がいいな」と思います。でも長くいると、今度は日本の便利さが恋しくなる。そんな自分にとっては、両方を行ったり来たりする暮らしが”夢の生活”なのだと思います。

 

グデさんにとって、東京って何ですか?

私にとって”第二の故郷”ですね。

特に杉並区周辺は、交通の便が良くて自然が豊かな、本当に住みやすい場所だと思います。バリ島と言えば”海”を思い浮かべる人が多いと思いますが、私は特に海の近くに住みたいと思ったことはありません。初めて日本に来たときに杉並区に住んで「いい場所だな」と感じてから、ずっとこのエリアを離れていません。慣れもありますし、すっかり自分の生活の一部になっています。

東京、中でも杉並区は、私にとって”家”のような街です。

 

グデさん関連リンク

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Interviews with international people featured on our radio show on ChuoFM 84.0 & website. Useful information for everyday life in Tokyo. 外国人にとって役立つ情報の提供&外国人とのインタビュー