松本利々子さん(前編)

インタビュー&構成:徳橋功
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Ririko Matsumoto
バレエダンサー/振付師/指導者

恩師の厳しい指導で成長した私は、指導者としてウクライナの子たちに恩送り。みんなギャン泣きしました(笑)

 

今もなお、世界各地で戦争や紛争、分断が続いています。日々の報道でそれらの動向に接しつつも、どこか遠い場所で起きていることのように受け止めてしまうものかもしれません。しかし私たちはこの人に出会うことで、厳しい状況を身近なものに感じられるようになりました。ご自身が戦火を逃れて日本に帰国した避難民でありながら、その後同じくウクライナを脱出し日本に避難してきた人たちへの日々の生活のケアや各種手続きに、ウクライナ語・ロシア語通訳として従事してきた松本利々子さんです。

松本さんはウクライナのバレエ界で活躍したダンサー。しかしよく聞くと、彼女は後進への指導も行っていました。ウクライナという世界的にもバレエが盛んな国で、ダンサーを夢見る少年少女たちに日本人が指導するというのは、譬えるならドイツやブラジルといったサッカー強豪国で日本人が指導しプロを育てるのと同じこと。その驚異のキャリアに私たちは一気に興味を深め、松本さんにインタビューを申し込みました。その後実際にお会いし、”埼玉発キーウ行き”のバレエに捧げた青春時代、そして開戦時の壮絶な脱出劇に触れることになったのです。

このインタビューは2部構成です。前編は幼少時代から開戦前夜、後編は開戦から現在、そして松本さんの描く未来についてお届けします。

*インタビュー@駒込(豊島区)

 

帰りたい、帰れない

開戦後に首都キーウからウクライナ西部の国境付近まで避難し、2022年3月17日まで滞在。そして3月20日にハンガリー経由で日本に戻ってきました。今は、日本に避難しに来ていると言えるのかな・・・確かに日本に帰国した当初は、2~3ヶ月程度”避難”して、再びウクライナに戻るつもりでいました。ただその後、縁あって日本に避難してきたウクライナ人のためのウクライナ語およびロシア語通訳業務に約2年間従事しました。

今ももちろんウクライナに帰りたいという気持ちがあるし、いつか帰るつもり。でもきっと、私が住んでいた頃とは全く違う国になっていると思います。例えば言語ひとつ取ってみても、私は今ではロシア語とウクライナ語の両方を話せますが、昔私がロシア語しか話せなかった頃、職場の同僚たちが私にロシア語で話してくれたものです。でもこれからウクライナに戻り、もし私がロシア語を話したら、きっと嫌な顔をされるでしょうね。だから現地に戻っても、そこで生活し続けることができるかどうか、正直分からない。それが少し寂しいですね。

 

「日本を出ればいいじゃないか」

私は3歳の頃から地元の埼玉県でクラシックバレエを習っていました。始めたのは2つ上の姉の影響です。姉は、まだ私が生まれる前から母とバレエ公演を見に行き、自分もやりたくなって、私と同じ3歳で始めました。バレエに取り組む姉を見て、私もやりたくなったのだと思います。

私は姉がレッスンを受けていた地元のバレエ教室に通い始めました。その教室には本部と支部があり、私たちは支部に通う一方、スキルを見出されて週2回ほど本部にも行きました。

やがて母から、バレエ界の現実を聞くようになります。日本国内のバレエ団に入って活動しても、年収は10万円未満。公演チケットは全部自分で売らなくてはいけないし、バレエ団の入団費用や月会費も払わなければならない。その上日々の練習も必須。つまりクラシックバレエで生活を成り立たせるのは無理だということです。当時姉は小5か小6で、部活動が必須になる中学校に進む前にバレエを辞めることを、母に伝えていました。

しかし姉が最後の舞台だと決めていた発表会に偶然来ていたロシア人バレエダンサー、アレクサンドル・ミシューチンが、姉がバレエダンサーとして理想的な体形をしていることから、彼女の可能性を見出したのです。彼は言いました。「日本でバレエで生活できないのなら、日本を出ればいいじゃないか」。

 

海外に憧れ ウクライナを目指す

すぐに答えを出せず悩む姉は、彼に伝えました。「ちなみに、妹もバレエをやっていますよ」。

私を見たミシューチンは言いました。「はっきり言えば、君はバレエ向きの体形ではない。でも舞台映えする表現力を持っている。お姉さんにそれを分けてあげてほしい」。そんな理由で、小4の私は姉と一緒にミシューチンからのレッスンを受けることに。姉は中学校進学後、幽霊部員として音楽部に所属しながら計3年、私は小5から計5年、彼の旧ソ連式の厳格な指導を、ほぼ毎日休みなく、学業と並行して受ける過酷な日々を送りました。

やがて彼とイタリアやルーマニアでセミナーを受けたり、アメリカでコンクールに出場したりするうちに、私たち姉妹は海外に興味を持つように。そして姉が中3になった頃、改めてミシューチンからバレエ留学についての提案がなされ、彼の故郷であるロシアもさることながら、旧ソ連の三大バレエ団のひとつ”キエフ・バレエ”があり、彼の知り合いの指導者たちがいるウクライナも勧められました。そしてその時ミシューチンから、ロシアのバレエ界がアジア人に対して門戸を閉ざしている現実を聞きます。彼を経由して現地のバレエ学校から声がかかっていたことも手伝い、姉はウクライナ行きを選択。2013年、15歳の姉はウクライナに飛びましたが、それにミシューチンと母、そして私もついていきました(笑)初めて触れる”緑の都”キーウの空気に「私もここに留学に来たい!」と思ったのです。

日本に戻った私は、中2の頃にロシア語を習い始めるように。地元にはロシア語学校が無かったので、埼玉から銀座まで週2回、放課後に通学。2年間本気で学び、ロシア語検定3級(日常会話程度)を取得しました。この時の勉強が私のロシア語力の基礎を作りましたね。余談ですが、情勢的にウクライナ語を学ばざるを得ない状況になった時にも、その基礎が大いに役立ちました。

 

アジアンビューティー 世界で活躍

2015年3月、中学を卒業。その後バレエとロシア語の追い込みレッスンを受け、同年9月ついにウクライナへ。2013年から14年にかけて現地のバレエ学校に留学していた姉は、エジプトのバレエ団から入団のオファーがかかったため、すでにウクライナを離れていました。姉が住んでいた当時から、ウクライナ東部では不穏な動きがあったものの、首都キーウでは人々が普通に生活。彼らに危機感はほとんど見られませんでした。

私は姉が通っていたキーウのバレエ学校に入学。そこは世界中から留学生を迎え入れており、日本人も私以外にもう一人在籍していました。学校でバレエを学びながら、海外ツアーに出たことも。また学校では、幼少の頃から母に習っていたピアノをより専門的に学び、そのスキルを活かしてレッスン受講生のためのバレエピアニストのアルバイトをしたり、ウクライナで人気のバンドでキーボードを演奏したこともありました。余談ですが、私のアジア的ルックスが珍しがられ、アメリカの超有名シンガーのPVや、バレエのスキルを活かしたコマーシャルなどに出演させていただきました(笑)


開戦直前に撮影されたコマーシャル。松本さんを探してみてください!

 

裏方に活路を拓く

姉はその学校で2年間学んだ後エジプトへ渡りましたが、私は3年間学びました。そのうち最後の1年は、ダンサーとしてのスキルを磨くよりも、指導や振付を学ぶことに。それと同時に、それまで学んできたクラシックバレエだけでなく、コンテンポラリーバレエにも興味を持ち始めました。また授業で触れた旧ソ連や中東欧の民族舞踊も、その表現の豊かさから大好きになり「将来は民族舞踊団で働きたい」と思ったほど。実際に恩師のミシューチンから民族舞踊の指導も受けていたので、馴染みはあったのです。

そこで私は、卒業後の就職先として民族舞踊団を考えました。しかし自分が身長が低いこと、そしてアジア人であることが大きな壁となることを、そこに所属している人に言われたのです。一歩外へ出れば、私のアジア的ルックスがプラスに作用したにもかかわらず・・・昔、ミシューチンが私たち姉妹に「ロシアのバレエ団は、アジア人に対して門戸を閉ざしている」と言いました。それと同じ現象が、ウクライナではバレエ団ではなく民族舞踊団で起きていた。それは民族舞踊がバレエよりも体形的・ルックス的に統一性を求められるからです。

バレエ学校でダンサーとしての国家資格を得た私は、その後バレエの短大に進学。他の学校の先生のアシスタントとしてアルバイトをしながら経験を積み、短大で2年間学んだ後、指導者や振付師、バレエ団監督の国家資格を取得しました。

ダンサーとしての限界を感じ始めていた一方、アシスタントではありましたが指導の仕事に楽しさを見出した私は、表舞台を降りて裏方の道に進むことを決めました。

 

恩師の教えを”昔の自分”に

卒業後、私が在籍していた短大で一緒に学んでいた、元バレエ団職員で当時30代の親日家の女性から誘われ、彼女が新しく立ち上げたバレエ学校に就職しました。しかもアシスタントではなく、メイン講師です。彼女がキーウで有名なバレエ団で働いていたという背景や「国立バレエ学校に入学・編入させ、著名バレエ団に所属する道を開く」を教育方針として掲げたことから、開校当初から生徒さんが集まりました。私は指導者として、かつて埼玉でミシューチンから受けた指導を、10人弱の生徒さんに対して行いました。彼女たちは皆ギャン泣きしていましたよ(笑)でもその甲斐あって、私が勤務していた2年間で約5人の生徒さんを国立バレエ学校に入学・編入させるまでになりました。

指導者として着々と経験を重ねていた頃、私の知らないところで戦争の足音が近づいていました。2022年1月半ば頃、日本やアメリカ、カナダなど主要国の大使館から、現地に滞在する外国人に向けて退避勧告が出されたのです。

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後編、いよいよ開戦の時迫る・・・首都キーウから国境への避難、そして国外脱出の様子について、ぜひこちらからご覧ください。

 

My Eyes Tokyo

Interviews with international people featured on our radio show on ChuoFM 84.0 & website. Useful information for everyday life in Tokyo. 外国人にとって役立つ情報の提供&外国人とのインタビュー

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