河内智之さん
インタビュー&構成:徳橋功
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Tomoyuki Kawachi
NPO法人代表/教育家
”理解”と妥協”は違う。価値観をぶつけ合うことが真の多文化共生につながるのです
約10年来の私たちの友人にインタビューを行いました。様々な背景を持つ人たちとの触れ合いの機会を、全国の中高生に提供する活動を行うNPO法人「未来をつかむスタディーズ」を運営する河内智之さんです。
横浜市内にある”あーすぷらざ”(神奈川県立地球市民かながわプラザ)で毎年行われる多文化共生イベント”あーすフェスタかながわ”。この実行委員の皆さんに、知人を通じて私たちは知り合いました。彼らの多くは海外出身者や外国にルーツを持つ人でしたが、ある人のサポートにより、会は毎回のように大成功を収めていました。それが当時あーすぷらざに在籍していた河内さんでした。
程なくして河内さんはあーすぷらざを退職し、自らの活動に専念。各地の学校を周り、未来ある学生たちに接する光景をSNSで見つめながら、異文化理解に賭ける彼の姿に、私たちはいつも感銘を受けていました。活動を続ける情熱や原動力はどこから来るのか – そんな疑問が最高潮に達したとき、私たちは数年ぶりに河内さんに連絡を取りました。
再会の席で「今、人生を閉じたとしても悔いはないように生きている」と私たちに言った河内さん。その言葉に至る彼の紆余曲折と覚醒に満ちた半生に、私たちは触れました。
*インタビュー@新宿
君は”自分”を生きているか?
私が運営している団体「未来をつかむスタディーズ」(以下”みらスタ”)。その名前には「”自分自身の生きる道(=未来)”を子どもたちが自分の手でつかみ取れば、日本の未来はもっと良くなる!」という思いを込めています。
”誰もが自分らしく生きていく”。このような言葉は、最近日本でもよく言われています。私自身は、子どもの頃から自分の個性や可能性、特徴について知ったうえで、社会とどのように折り合いをつけながら生きていけば良いかを考える傾向にありました。”他人の価値観ではなく自分の価値観で生きる”、いわば”自分を生きる”ための教育を、自分で自分に課していたのかもしれません。そうして紆余曲折を経て辿り着いたのが現在の活動です。自分の個性や可能性を開拓しつつ、それを自覚していく。そのような機会を多くの子どもたちに伝える場を作れば、いろいろな人たちが自分を生きることができ、ハッピーを感じられるようになり、お互いが認め合う余裕が生まれる。”自分のハッピー”と”誰かのハッピー””世の中のハッピー”に皆が気づいたら、やがて社会に調和が生まれる – そんな未来を夢想しました。
キャリアを描く時も、仕事紹介や職業訓練を受けるだけでなく、様々な人たちの価値観に触れながら自分の価値観について考えることがとても大事です。さらにグローバル社会に突入して久しい現在、自分の隣にいる親兄弟だけでなく、自分とは全く違う価値観や社会の中で生きてきた世界中の人たちと共に暮らすことは必至。だけどその人たちと触れ合う機会はあまりに少ないように思います。
過去から現在を経て未来に向かっていく道を縦軸に、自分とは違う文化や価値観の理解を横軸に置くと、それらが交わるところに今私たちはいる。その場所について理解し、自分たちがハッピーに生きていける道を俯瞰して考えられるような学びの場が日本に必要だと思い、2011年に”キャリア”と”国際理解”を活動の柱とした団体を立ち上げました。それが「みらスタ」です。
銀行マン 資本主義に”?”
バブル経済華やかなりし頃、私はある疑問を抱いていました。高校3年生だった1989年にベルリンの壁が崩壊し、その後1991年にはソ連が崩壊。公平や平等を是とする社会体制が壊れていく様を目の当たりにしたわけですが、当時のメディアで”資本主義の勝利”などと喧伝されるのを見て「完全無欠なイデオロギーなどあるはずがない。なぜ”勝ち負け”だけで語ろうとするのか?」と憤りを覚えました。
そんな私は野球少年でした。埼玉県内の公立高校の野球部で練習に明け暮れる日々。学校の勉強に意味を見出せないまま卒業したものの、社会に通用するスキルが無いことを悟り、一念発起で勉強に取り組みました。そして一般受験で立教大学に進学し、硬式野球部に入部。東京六大学野球の一角を占め、プロ野球選手も輩出してきた野球部は、私にとってはあまりに大きな舞台で、私はベンチ入りの当落線上にいるような選手でしたが、卒業間際まで現役としてプレーしていました。
一方で就職活動の時期を迎え、自宅には様々な会社の資料が山のように送られてきました。インターネット前夜、まだインターンシップ制度が普及していない当時、それぞれの職業や職務について深く調べる術が無く、給与や福利厚生だけで就職先を探す学生もいる。”30歳で月収○万円”と書かれているのを見て「それが俺の命の価値なの?」と(笑)社会について深く学ぶ機会が無いまま、表面的な情報だけをもとに自分が歩むべき道を見つけなければならない現状に失望を覚えました。しかし私はその状況を逆手に取り”世の中を広く見られる仕事に就く”ことを考えます。こうして私は銀行と商社を目指し、縁あって都市銀行の1つから内定をいただきました。
私が社会に出る直前、1995年1月に阪神淡路大震災が発生し、同年3月に地下鉄サリン事件が起きました。世の中が暗いムードに包まれる中で社会人生活がスタートしましたが、一方で「景気浮揚に血道を上げてきた銀行が、これらの事件をきっかけに弱者救済や教育支援に乗り出すかもしれない」という期待を抱きました。しかし世の中は相変わらず景気対策に奔走するだけのように見えました。もともと資本主義体制の在り方に疑問を感じていた私が、資本主義の総本山とも言える銀行に合うはずは無く、入行後わずか1年余で退職することにしました。
元キューバ代表に”野球”を教える
野球と同じくらい興味を持っていたのが、海外です。小学3年生の頃、担任の先生がカンボジアで作られたミニトマトを持ってきて、私たち生徒に分けてくれたことが、私にとっての”世界への窓”となりました。さらに高校の修学旅行で中国へ。当時から世界情勢に敏感で、銀行と共に商社も就職先として考えたのは、これらの経験があったからです。
その私が銀行を辞めて向かった先は、メキシコの南に位置する中米グアテマラ。青年海外協力隊の隊員として、ナショナルチームのコーチとして野球指導に赴きました。選手としての経験はあっても、指導したことが無かった私は、1年間母校の高校でコーチを務めさせてもらい、その間に青年海外協力隊の試験を受け、20~30倍の競争率をくぐり抜けて合格。3ヶ月間のスペイン語研修を経て、現地で5人目の日本人指導者としてグアテマラに赴きました。
正直言って私は、現地の野球レベルを甘く見ていました。
私が指導するグアテマラのナショナルチームのコーチ陣には、キューバやドミニカなどの野球大国で代表として活躍した人たちが勢ぞろい。ソウル五輪(1988年)で野茂英雄さんと投げ合ったキューバ人の元投手や、アメリカのマイナーリーグに所属していた人たちまでいたのです。
ただ彼らには「グアテマラの野球を発展させたい」という思いが欠けているように思えました。彼らはいわば”野球出稼ぎ”として来ていたので、仕方がない部分もあります。でも私は、高校や大学でしか野球経験がないアマチュアに過ぎなかったけど、地球の裏側から、しかも銀行を辞めて退路を断って赴いたから、適当な活動をするわけにはいきません。一生懸命なあまり時に頭に血が上り、当時のキューバ人監督から「そんなに熱くなるなよ、トモ」となだめられたり、「グアテマラにはキューバや日本みたいに野球の土壌があるわけじゃないんだから、強くならなくてもしょうがないよ」と現地の人から言われたりするなど、彼らとの熱意の差に歯がゆさを感じながらも、私はベースボールとは似て非なる日本の”野球”を、現地の人たちに伝えていきました。
グアテマラ赴任時代 中米オリンピックにコーチとして参加した河内さん
写真提供:河内智之さん
”自分の幸せ”が土台!
時は過ぎ、グアテマラでの滞在期間が残り少なくなった頃。私は思い切って発想を変えてみました。「しかめっ面をして指導しても、誰もついて来ない。ならば、まずは自分が思い切り楽しもう!」。やがて指導者としてだけでなく、夜には投手としてチームでプレーするようになり、俄然楽しくなってきました。すると周りの人たちとの軋轢が徐々に薄れていくのを感じたのです。
この体験を通じて、私が長い間抱えていた資本主義への疑問が、まるで複雑に絡まった糸がほどけるように解けていきました。
グアテマラの街中にはトヨタや日産など日本車がたくさん走り、私のホームステイ先にはパナソニックや三菱電機、ソニーなどの家電であふれていました。日本の生活を潤したこれらの会社が、その余力で海外の人たちの暮らしにも貢献する – それが先人たちの目指した資本主義の在り方なのだ、と気づきました。
それは私自身の姿勢にも当てはまります。「チームに貢献しなきゃ!」と思い熱血指導をしても誰もついて来なかったけど「まずは自分が楽しもう。自分の幸せを追求しよう」と考えたら、周りに理解者が増えていった。そして彼らも私と一緒にいる時間を楽しいと感じるようになった。それはちょうど、日本のメーカーが自国の経済を潤してから他国の経済に貢献することと同じです。さらに日本人は私一人だけという環境に身を置くことで、自分が100%日本人であることをあらためて認識しました。すると他の人たちの文化も尊重できるようになったのです。
理想の学校づくりへ
2年間のグアテマラ滞在を経て日本に帰国。彼の地で自分が日本人であることを自覚するも、日本のことを全く知らないことに気づいた私は、弁護士事務所で働きながら憲法を中心とした日本の法律を学び始めました。目標があった方が良いと思い司法試験を3回受けましたが、いずれも不合格。しかし私は日本の法律、中でも日本国憲法の理念や考え方について、教育を通じて子どもたちに伝えていきたいと思いました。
その時思い出したのが、私の浪人時代です。野球一色だった高校時代が終わり、そのまま社会に出ることを考えるも、当時の自分が出来ることなど何もない。「ならば大学に行こう。そのために、それまでほとんどやったことが無かった勉強というものに取り組もう」と考え予備校へ。そこで私はプロの講師たちから学びながら、勉強の面白さに目覚める – そんな経験から「いつか何かを教えるプロになりたい」という思いを長らく抱いていました。
私は教育現場での経験が積める場所を探し、私が抱いていた「塾や予備校は本来はこの世の中に必要ない」という思いを同じようにスローガンとして掲げていた埼玉県内の塾に出会います。勉強ができる子もできない子も全て平等に扱うその塾で、私は8年間教壇に立ちました。そこで教えることを学びつつ、私は「理想の”学校”をつくりたい。生徒が勉強だけでなく”自分を生きる”ために必要な学びが得られる環境をつくりたい」と思い続けていました。
いろんな価値観に触れ 自分の頭で考える
2010年、私は青年海外協力隊のOB・OGで組織する”青年海外協力協会”(JOCA)へ。ただ挨拶に訪れたつもりが「人手が足りない」と言われ、自ら立ち上げた”理想の学校をつくる”プロジェクトを抱えながらJOCAに入社。翌2011年、JOCAが横浜市内にある”あーすぷらざ”の運営を、神奈川県国際交流協会に代わって行うことになり、その多文化共生部門の統括として私に白羽の矢が立ちました。自分のプロジェクトを進めながら行うには荷が重く、引き受けるべきか迷いましたが、この業務に私自身が使命を感じて”YES”と返事しました。
業務内容の引き継ぎや、その後の運営の方向性をめぐり神奈川県と議論を交わす日々。大変ではありましたが、神奈川県内の各自治体に向けた外国人相談窓口業務の支援や、国際理解セミナーおよびシンポジウムの企画運営といった多文化共生部門での仕事を通じて、神奈川県内の各民族団体とつながり、さらにイベントなどの運営に関わる日本人たちを通じて様々な外国籍市民たちにも出会いました。
これらの出来事を経て、私は「みらスタ」を立ち上げました。少年時代から社会の在り方を考え、将来について悩み、あちこちにぶつかりながら国内外を彷徨ってきた私の経験を全てぶつけた、私が本当に理想とする”学校づくり”です。
今の社会が抱える課題について、私たち大人が子どもたちに解決方法を教えるのではなく、自分の頭で考え、自らがプレーヤーとなって解決する人たちを育てる。その一環として”異文化理解”があります。自分とは背景が異なる人たちの価値観を知ることで視野が広がり、ひいては自己理解も深まる。自分にとってのハッピーと世の中にとってのハッピーに気づき、それらが交わる場所へ自分の足で歩いていく – そんな子どもたちが日本中から生まれることを夢見て、私は全国を飛び回っています。
写真提供:河内智之さん
手に届かないものを身近に感じるために
異文化理解や多文化共生において重要なのは”相手の文化にある背景を知ること”。単に相手の文化を知るだけでは不十分です。先日、ニュージーランド出身の人と話していた時、こんな事例を教えてくれました。
大人同士が立ち話をしている背後に子どもがいて、親が子どもの足を踏んでしまいました。日本なら親が子どもに「ごめんね、大丈夫?」とまずは言うと思います。ところがニュージーランドでは、謝ることはしません。親は子どもに「後ろにいることを知らせないといけないよ。パパは後ろに目がついていないんだよ」と伝えます。
この現象を見て、彼らの文化を知ったとしましょう。でも「ニュージーランドの人たちは何てひどいのだろう」と思うのは早計です。なぜ謝らないのか?それは「今後、子どもが同じような危険を冒さないため」。反対に日本社会では先に親が謝る。日本の親もニュージーランドの親も、子どもがそれぞれの社会で上手く生きられるような対応をしている点では同じです。そして、互いにこうした背景まで知ったうえで、初めて相手の文化に対して好みか好みでないかを選ぶのはアリだと思います。多文化共生は「お互いに嫌なことには目をつぶって、みんな仲良くしようね」ということでは決してない。それは単なる”妥協”です。「これは理解できるが、それは理解できない」と – もちろん相手を尊重しつつ、直接的ではなく遠まわしでも良いですが – お互いに自分の価値観や考え方をぶつけ合いながら相互理解を育んでいく姿勢が、真の多文化共生につながるのだと思います。
現在の世界情勢に目を向けると、ロシアとウクライナのように戦争をしている地域がありますよね。早期終結を願いながら状況を追っている人も多いと思います。しかし人間は、自分の手で触れられないものについては”自分ごと”として考えないもの。でも日本にはウクライナからの避難民が生活しているし、ロシア出身の人たちもたくさんいる。他の紛争地域から日本に来た人たちも多くいます。
彼らと触れ合ったり、彼らの本音を聞いたりしたうえで、戦争や紛争が起きた背景を知り、現状に対して行動を起こすか否か、行動するなら何をするべきか、子どもたちが自分の頭で考える – そのような環境を作っていきたいと思います。
河内さん関連リンク
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